2022年1月23日礼拝説教「主は備えてくださる」

 

聖書箇所:創世記22章1~19節

主は備えてくださる

 

 神の約束にしたがって奇跡的に与えられたイサクの誕生を、年老いたアブラハムは大いに喜びました。そのイサクをささげなさいと、今日の箇所で神は命じられました。わたしたちの常識や感覚から見ても、子供をささげよとの神の御命令は、決して受け入れることのできるようなものではありません。なぜ神が、このような御命令をアブラハムになされたのかは明かされません。しかし、神がどのようなお方であり、そのお方を信じる信仰とは何かが、この箇所から明かされています。

 神がどのようなお方であるのか。ここで示されているのは、神の民を試して試練をお与えになる神の姿です(1節)。神の試練とは、その人の一番大切なものを神のためにささげることです。誰かにとってそれは家族かもしれませんし、地位や財産、あるいは職業かもしれません。アブラハムにとって一番大切なものは、一人息子イサクでありました。彼にとってイサクは、自らの命よりも重いのです。それほど大切なイサクを、焼き尽くす献げ物としてささげよ。それが神の御命令であり、神の試練でありました。焼き尽くす献げ物であるという点が、この試練をより厳しいものにしています。それはすべてを神にささげる献げ物だからです。自らの人生、自らの命をかけてでも守りたいほど大切な物を、すべて、残らず、わたしのためにささげよ。これが神の民に要求される神の試練です。自らが大切にしているものを保持しながら、神をも大切にしようとする。このような態度を、神はお許しにはならないのです。この神の試練に対して、アブラハムは一切反論しませんでした。それどころか次の日の朝早く、彼はためらうことなくすぐに行動を起こします。この行動の故に、新約聖書においてアブラハムは信仰の人として記されています(ヘブライ11:17)。ヤコブの手紙では、これが信仰を完成させる行いであると記されています(ヤコブ2:20~22)。一番大切なものをも神にささげることをいとわない。それほどの信仰こそ、わたしたちを救う信仰なのです。信仰には、大変厳しい面があるのです。その厳しさを、試練として神はわたしたちにお求めになるのです。

 ところでアブラハムはなぜ、イサクを全て献げよとの神の御命令に従うことができたのでしょうか。そこにある思いを、イサクとのやり取りから知ることができます(7~8節)。このときのアブラハムは、後に雄羊が与えられることを知りません。イサクを手放すことを覚悟していました。しかしそれでも、その先に神はわたしに備えを与えてくださる。それが彼の確信でした。この確信の故に、彼はイサクをささげよとの神の御命令に従うことができたのです。これがアブラハムの信仰の核にあることなのです。この信仰があるからこそ、大切な物をも神のためにささげることができるのです。事実神は、雄羊を用意してくださり、結果的にイサクの命は守られました。これはアブラハムにとって、イサクを失わずに済んだ出来事ではありません。アブラハムはイサクを屠るために刃物までとったのです。この時点でイサクはもう死んだも同然です。アブラハムは神のために、イサクを完全に手放したのです。そのイサクを、神はアブラハムに返されました。そのためにささげられた雄羊は、息子イサクの代わりでした(13節)。この雄羊の先に、神の小羊として十字架上でご自身をささげられたキリストのお姿を我々は見るのです。独り子キリストをおささげになってまでも、神はわたしたちのために確かな備えを与えてくださるのです。そのことに本当に、信頼しているでしょうか。キリストの十字架に、信頼できているでしょうか。その自らの心が、自らの大切なものを神のために手放すことができるかどうかに現れるのです。

 子供のころから学校の教師になることを望まれていた、ある牧師先生がいらっしゃいました。しかし牧師への道が示されて、泣く泣く学校の教師になる道をあきらめたそうなのです。このときこの先生が神のために手放したのは、学校の教師になる夢でした。こうして牧師になったその先生は、その後牧師をしながらミッションスクールで子供たちに聖書を教える教師をも担うことになりました。その先生がそのことを振り返りながら「神様は学校の教師という働きをも、私の手に返してくださった」と言われていたのが大変印象に残っています。これが神というお方なのです。わたしたちが神のために手放した大切なものを、決してそのままにはしておかれません。そのために備えてくださるのであり、それを神はわたしの手元に返してくださるお方なのです。マタイによる福音書で主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と語られています(マタイ16:25)。アブラハムは、大切なイサクを神にささげました。イサクは彼にとって自らの命以上に大切なものでした。それをささげたアグラハムに、神はイサクをお返しくださいました。それだけではありません。アブラハムの子孫が増え、敵に勝利し、そしてその子孫が神の祝福の源になるとの約束を、与えてくださいました。アブラハムが手放した以上の祝福を、神はお返しくださったのです。

 

 神は試練を与え、わたしたちを試すお方です。わたしの命、わたしの人生、そしてその人生において何よりも大切にしているものを、神のために全てささげるようにと、神はお命じになられます。しかしわたしたちは、身を切り犠牲を払ってただただ涙を流しながら神に差し出すのではありません。神は、わたしたちが神のために手放した以上のものを、必ず備えてくださるのです。その何よりの証拠が、わたしたちの身代わりの雄羊としてささげられた十字架のキリストです。それほどまでに備えてくださる神に信頼し、この方に自らの命を、わたしの人生をゆだねていこうではありませんか。