2022年1月9日礼拝説教「そばに立たれる神」

 

聖書箇所:使徒言行録22章30節~23章11節

そばに立たれる神

 

 パウロはローマ帝国の市民権を持っていたために、過酷な尋問を免れました。しかし彼に端を発した騒動がエルサレム神殿で起こったことは事実です。千人隊長は騒動が起こった経緯を調べる必要がありました。そこで千人隊長は、ことの真相を探るために祭司長と最高法院全体の召集を命じ、その中にパウロを立たせました。そこでのやり取りが、今日の箇所です。

 23章に入りますと、パウロと大祭司アナニアのやり取りが記されています。パウロは集まった人々に対して語ります(1節)。ここでキーとなる言葉が「良心」です。辞書では「自分の本性の中にひそむ欺瞞や打算的な考えなどを退け、自分が人として本来あるべきだと信じるところに従って行動しようとする気持」(新明解国語辞典)と説明されています。欺瞞や打算的な考えは、周囲の人々の目を気にするところから出てきます。本当はすべきでないけれど、周りに合わせてなすような行動です。そこには心と行動の不一致が生じています。そういったことを退けて、自分の信じるところに従って行動しようとするのが良心です。ですからパウロは、人目を気にしてではなく、神に従おうとする自らの心に従って行動したということです。

 この発言を聞いた大祭司アナニアは、パウロの口を打つように命令しました。パウロを黙らせようとしたのです。同時にこの命令が、当時のユダヤ教の姿を示しています。すなわち良心を否定する姿、心と行動が一致しない姿です。人目を気にし、したいすることを我慢することが目的となっていたのです。わたしたちもまた、キリストを信じているがゆえに我慢する場面はあるでしょう。それはもっと良いものを得るためです。だからこそ、我慢しても心と行動は一致するのです。しかしそこから、我慢することが目的に変わってしまうことがあります。神のためにたくさん我慢した者が偉い。そんな窮屈な宗教になってしまうのです。それが当時のユダヤ教の姿であり、それが大祭司アナニアの行動に表れたのです。それをパウロは「白く塗った壁」と言っています(3節)。これはエゼキエル13:10,11とつながっています。このエゼキエル書で批判されているのは、偽預言者たちです。彼らは外面では神に従順な預言者を装いながら、民の受けを狙って「平和」と預言していました。ここに欺瞞と打算があり、心と行動の不一致があるのです。大祭司アナニアが、まさにこの偽預言者と同じだとパウロは批判するのです。そこで近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしるのか」と言いますと、パウロは「こんな行動をする人が大祭司なはずはない、知らなかった」という具合に、痛烈に大祭司を皮肉ったのです。

 6節からは、パウロが最高法院の議員全体に語りかけます。ファリサイ派とサドカイ派の理解の違いの一つは、死者の復活を認めるか否かにありました。この発言をすれば議場が分裂することを、パウロは予想していたでしょう。しかしそれが彼の主目的だったわけではありません。この発言は、彼の信仰の告白です。死者が復活するという望みは、キリスト教信仰の根本です。主イエスが復活され、主を信じる者もまた復活する。この希望こそ、パウロがキリスト教に対して抱いていた希望です。それはそのまま、今の時代に主を信じるわたしたちにとっての希望でもあります。パウロのこの発言で議場が分裂した結果、彼の自身の身に危険が及びます。そのため千人隊長は彼を助け出して兵営に連れて行くように命じたのでした。

 その夜、主はパウロのそばに立って言われました(11節)。この言葉のとおりパウロはローマに移送され、そこで証しすることになります。ここで主が命じられたのは、エルサレムで証ししたようにローマでも証しすることでした。直近で語られたパウロの証しが、6節の「死者が復活するという望みを抱いている」との発言でした。これをローマでも証しするようにと、主はそばに立ってパウロに命じられたのです。しかしこの復活の希望は、証しをすることで論争を引き起こすものでもあります。わたしたちにとってもそうではないでしょうか。未信者の方にキリスト教のことを話すときに、受け入れられにくく論争になりやすいのが復活の教えです。パウロのように裁判にまでかけられることは稀でしょうが、復活を信じ、証しすることで、わたしたち自身が白い目で見られ、不利益を被ることはあるのです。それゆえに、良心に逆らい欺瞞や打算的な考えを持っていては、復活の希望を証しすることはできないのです。

 

 パウロはまさに良心に従って神の前で生きてきた人でした(1節)。そのような彼のそばに、神は立たれたのです。良心に従って生きる者をとおして、キリストの復活の希望が証しされていくのです。それを、神は望んでおられるのです。それが今日の御言葉に示された神の御心です。この神の御心の前で、今日わたしたち自身の心を見つめなおしましょう。教会に来て礼拝に出席している以上、わたしたちは信仰的に振る舞い、信仰的な言葉を語ります。その言動に、自らの心は追いついているでしょうか。こう言っておかないと波風が立つ、こうしておけば人から評価してもらえる。そういった打算的な考えの中で、窮屈な信仰生活を送ってはいないでしょうか。主イエスは「子どものようにならなければ天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)とおっしゃいました。子供は、思った通り素直に行動し言葉を発します。その意味で、心と行動が一致する良心のお手本です。まさにその子供のような信仰者として、心のままに神に従い、復活の希望を世に証しする者でありたいのです。そのような者のそばに、神は立ってくださいます。そして「勇気を出せ」と励ましてくださいます。だからこそ、人目を気にし、我慢するために頑張る信仰は、もうやめようではありませんか。