2021年12月19日クリスマス記念礼拝説教「平和はここにある」

 

聖書箇所:ルカによる福音書2章8~14節

平和はここにある

 

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

クリスマスの喜びは、この言葉に凝縮されています。このクリスマスの喜びの知らせが最初に与えられたのは、羊飼いたちでした。なぜ羊飼いなのでしょうか。その答えを知るためには、まずこの羊飼いたちが置かれていた時代状況について知る必要があります。それは皇帝アウグストゥスの時代でした(2:1)。この時代から、パクスロマーナ(すなわちローマの平和)と呼ばれる政治的に安定した時代が始まりました。それは皇帝が先頭に立って領土を治めることによって実現した平和でした。皇帝(ラテン語のインペラトール)とは、もともとローマ軍の最高指揮権を持つ人に与えられた称号です。ローマの平和の土台の一つに軍事力があり、その先頭に立っていたのが皇帝でした。このローマの平和に基づく皇帝の支配の一環として、住民登録が行われたのです。そのとき羊飼いたちは、野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。彼らは住民投票の対象外でした。つまり人として見られていませんでした。羊飼いという職業は、当時大変軽く見られていました。聖書の物語は、文字で読むか、絵本や絵画をとおして触れることがほとんどです。それらに不足しているのは「におい」です。彼らは羊たちの糞尿のにおいにまみれて仕事をしていました。そして人々からは軽蔑され、人里から離れたところで野宿をしていました。彼らは、ローマ皇帝がもたらすローマの平和の対象外であったのです。

 そんな彼らに、主の天使がクリスマスの知らせをもたらすために現れました(9節)。日本語訳では省略されていますが、原文には「彼ら」という言葉が2度も使用されています。「主の天使が『彼らに』近づき、主の栄光が『彼らを』照らした」。つまり主の天使は、羊飼いである彼らを狙って現れたのです。照らされた羊飼いたちは非常に恐れました。そんな彼らに10節以降で天使がクリスマスの知らせを告げます。そしてここで繰り返し用いられているのが「あなたがた」という言葉です。天使の言葉の照準もまた、羊飼いに向けられています。苦労している羊飼いたちに、お情けでクリスマスの知らせが伝えられたわけではありません。羊飼いであるあなたがたこそ、クリスマスの知らせを最初に受けるべき存在なのだと、主の天使は語るのです。彼らに与えられたしるしは、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子でした。そこは家畜小屋です。そこにも人の嫌がる家畜の糞尿のにおいがしたでしょう。しかし羊飼いにとって、それは自分たちのにおいです。この意味で、飼い葉桶の救い主は羊飼いたちのための救い主であったのです。この救い主が飼い葉桶の中に寝かされたのは、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからでした(7節)。この救い主には、ローマの平和の社会に居場所がないのです。その状況は、羊飼いたちも同じでした。この意味でも、羊飼いたちと飼い葉桶の救い主は共通であったのです。

 皇帝によってもたらされ、力によって支えられる平和は、結局のところ力ある者しか対象とはなりませんでした。弱い立場の羊飼いたちは、この平和の対象外でした。そのような弱さのなかにあり、人々から軽蔑されている人々の救い主として、主イエスキリストはお生れになったのです。だからこそ、真っ先にこの羊飼いたちに、クリスマスの知らせがもたらされなければならなかったのです。しかしそれは、羊飼いたちだけの喜びではありません。民全体に与えられる大きな喜びでもあるのです(10節)。この平和は、羊飼いたちから民全体に広がっていくものなのです。この喜びを告げた天使たちの賛美が14~15節に記されます。地には平和が、御心に適う人にある。ここに本当の平和があります。ローマ皇帝ではなく、この幼子にこそ真の平和があるのです。この平和がもたらされるのは、神の御心に適う人です。「御心に適う人」とは、「御心に相応しい人」という意味ではありません。直訳すると、神の喜びの内にある人々です(多くの英語訳聖書が採用している訳)。神の御心が向けられた人々、神が喜びの中においてくださる人々です。羊飼いたちがそうであったのではないでしょうか。彼らは一生懸命仕事をしていましたが、神の御心に相応しい存在とは見なされていませんでした。彼ら自身も、自分自身を卑しく神から遠い存在として見ていたのではないかと思うのです。自分たちは神から遠い、そして弱い、汚い、くさい、といった具合に。しかしそんな彼らに、神は御心を向けられたのです。彼らを選ばれて、神は喜びの内に入れられたのです。これは、このときの神の気まぐれではありません。旧約聖書の時代から、神は一貫してそのようなお方なのです。社会のなかで居場所がない人々、つまはじきにされている人々、生きにくさと弱さの中にある人々。そのような人々に、神は目を留め続けました。そしてそのような人々のために、救い主はお生れになったのです。

 

 わたしたちもまた、それぞれに重荷を抱え、社会の中で生きにくさを感じています。たとえ世の中で成功したとしても、自らの居場所のなさを感じているのではないでしょうか。そのような者だからこそ、神はわたしたちに目を留めてくださり、このクリスマスの喜びの内に入れてくださったのです。この救い主のもとに、真の平和があるのです。この平和は、ローマの平和のような皇帝の力によって支えられるものではなく、十字架の血によって与えられる平和です。罪赦され、重荷を取り去られることによって与えられる平和です。自分は神から遠い、わたしは神の恵みには相応しくない。その悲惨のなかで生きる者に、真っ先に神が与えてくださる平和です。その平和を、今日、ここに集められた兄弟姉妹と共に心から喜ぼうではありませんか。