2021年12月5日礼拝説教「わたしは主を待ち望む」

 

 

聖書箇所:イザヤ書8章11~23節

わたしは主を待ち望む

 

 クリスマスを待ち望むアドベントを、わたしたちは過ごしています。クリスマスと聞くと、プレゼントやパーティーを思い浮かべる方が多いでしょう。これらを楽しみにしながら、楽観的な気持ちで待つのがアドベントの姿なのでしょうか。今日のイザヤ書に記されている人々は、どうやら違うようなのです。もう神にしか希望はない状況の中で、なお神を待ち望んでいます。それが聖書に記されたアドベントの姿です。このような本来のアドベントの姿で、わたしたちが救い主を待ち望むためには、まず自らが悲惨な状況にあることを受けとめねばなりません。それを知らせるのもまた、神の言葉なのです。イザヤ書8章の御言葉は、まさに神の民が置かれた悲惨な状況を知らせる言葉です。

 聖書朗読は11節からでしたが、説教では8章全体を取り上げます。8:1~8では、王国の破滅の予告が語られています。破滅する王国は、神の約束の器である南ユダ王国を攻めようとしていた北イスラエル王国と、同盟を組んだアラムです。これらの国の破滅のしるしとして、マヘル・シャラル・ハシュ・バズという子供が誕生します。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからは富が、サマリアからは戦利品がアッシリア王の前に運び去られます(4節)。ダマスコはアラムの首都、サマリアは北イスラエル王国の首都です。ですからこの二つの国が、間もなく超大国アッシリアに滅ぼされることが預言されているのです。このアッシリアは、後に南ユダ王国にも襲いかかることになります(5~8節)。それは南ユダに住む神の民が、ゆるやかに流れるシロアの水を拒んだからです。シロアの水とは、南ユダ王国の首都エルサレムに水を供給する流れです。この水の流れが、この町を支えておられる神を指しています。民はこの水を拒みました。すなわち神を拒んだのです。民が頼ったのは、7節に記される大河の激流でした。大河の激流とは、ユーフラテス川のことであり、アッシリアです。北イスラエルとアラムに攻められた南ユダ王国の民は、神ではなくアッシリアの軍事力に頼りました。そうでありながら、彼らは神を完全に捨てたわけではありませんでした。14節で聖所に言及されています。彼らは形の上では聖所で神に仕えていました。おそらく彼らは、ある面で楽観的だったと思うのです。「自分たちは神の民だから大丈夫だ。だから神はこの国を、無傷でお守りくださるはずだ」と。しかしそうはなりませんでした。民が頼った大河の激流(アッシリア)は、南ユダをも襲うことになります。この激流は、ユダの首にまで達します。滅びる一歩手前まで、南ユダ王国は追い詰められるのです。しかしすんでのところで、南ユダ王国は滅びを免れることになります。神がこの国と共におられることを、インマヌエルをとおして神が約束されていたからです。

 神はイザヤをとらえ、この民の行く道に行かないようにと戒められました(11節)。この民の行く道とは、自分たちの国を攻めようとする他国の同盟を恐れおののきつつ、自らも他国との同盟に頼ろうとする道です(12節)。一方で聖所に通いながら(14節)、自分たちは神の民だから大丈夫だと楽観的に過ごす道です。このような神の民の進む道を、主は打ち砕かれるのです(15節)。このような道ではなく、万軍の主をのみ聖なる方とし、主のみを畏れよと、主はお命じになられます。命じられたイザヤの行動が、16節から語られていきます。彼は弟子たちと共に証しの書を守り、教えを封じておくことにします。証しの書と教え、すなわち神の律法です。わたしたちにとっては、神の言葉である聖書に対応するでしょう。まずは神の言葉をとどめておき、そして主を待ち望むのです。主は御顔をヤコブの家に隠しておられます。この厳しい状況のなかで、それでもわたしは主を待ち望むと、イザヤは語ります。彼と共に主を待ち望む子らもまた、イスラエルのしるしと奇跡として与えられます(18節)。新たな神の民が起こされるのです。こうして起こされた神の民が、悲惨な状況のなかで主を待ち望む。これがまさにアドベントの姿なのです。そんな彼らに、人々が投げかける言葉が19~20節に記されます。人々は、口寄せや霊媒こそ頼りになると語ります。そして神の言葉である教えや証しに、まじないの力はないと主張するのです。神を信じているはずの南ユダ王国の民が、神の言葉である教えや証しの書を否定し、口寄せや霊媒といった、この世界の常識を超越するような奇跡的な状況変化を望んでいます。そんな彼らは、暗闇の中を神から離れて生きることになるのです。しかしこの暗闇の中にいるのは、神に信頼できなかった人々だけではありません。イザヤも、そして彼と共に主を待ち望む新たな神の民も、皆が困難の中に陥っています。その状況のなかでなお、主をのみ聖なる方とできるか、主のみを畏れることができるか。それが問われているのです。そしてわたしたちが畏れるべきこの主なる神は、教えと証しの書の言葉(すなわち聖書)をとおして御自身を示されるのです。

 

 我々は皆、キリストを信じています。では聖書の御言葉を、力ある神の言葉として聞くことができているでしょうか。この言葉を差し置いて、自らに都合の良い奇跡を求めてはいないでしょうか。最後には神が奇跡的な方法で助けてくれると、どこか楽観的にアドベントを過ごしてはいないでしょうか。地上の生きるわたしたちは、神の民であろうがなかろうが苦難があり、闇の中を歩んでいます。その中での確かな希望は、キリストの十字架にこそあります。それらはただ、神の御言葉、聖書をとおして示されていきます。だからこそ、御言葉に留まり続けようではありませんか。御言葉にとどまって主を待ち望み続ける神の民に、クリスマスの驚くべき光が与えられるのです。