2021年11月28日礼拝説教「信じなければ確かにされない」

 

聖書箇所:イザヤ書7章1~17節

信じなければ確かにされない

 

 救い主の誕生の預言として読まれる機会の多いイザヤ書7~9章の御言葉に、アドベントの三週にわたって共に聞いてまいりましょう。本日はその一回目、7章1~17節です。「信じること」そして「確かにされる」について特に着目していきます。2節の最後を見ますと、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺しています。「確かにされる」からは真逆の状況にあります。ここで激しく動揺しているのは、全能の神を信じているはずの神の民です。にもかかわらず、彼らは大きく動揺してしまっているのです。なぜでしょうか。このことを知るために、まずは神の民イスラエルの王国の歴史のお話から始めましょう。

 もともと一つの国であったイスラエルですが、途中で北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。南ユダ王国は、基本的にはダビデ王の子孫が王となりました。一方北イスラエル王国は、ダビデ王の血をひかない人々が王となりました。国力でいうならば、北イスラエル王国の方が勝っていました。豊かな土壌が、北の地方に多く分布しているためです。このような状況で、北イスラエル王国の王ペカが南ユダ王国に攻めてまいります。南ユダ王国は、なんとか食い止めていました。そのようななかで、エフライム(すなわち北イスラエル王国)がアラムと同盟を組んだという知らせが、南ユダ王国にもたらされました。自分たちよりも力を持つ二つの国が同盟を組み、今にも自分たちの国を攻めようとしています。それゆえに、王の心も民の心も、大きく揺れ動いたのでした。ところで、南ユダ王国を攻める北イスラエルとアラムにも事情がありました。北イスラエルとアラムのさらに北には、アッシリアという超大国が迫っています。これに対抗するために、北イスラエルとアラムの同盟に、南ユダを加えようとしていました。これが、6節でタベアルの子を王に即位させようと図った意味です。タベアルの子がどのような人物かは分かりません。おそらくダビデの血筋ではない、二人の王たちにとって都合の良い人でありましょう。

 ここで神が御介入されます(7~9節)。エフライムもアラムも、その頭は結局のところレツィンあるいはレマルヤの子という人間に過ぎないのです。ところでこのくだりに、南ユダ王国自身は言及されていません。また、今日には「アハズ王」とも書かれていません。これが意味するところは、南ユダ王国の王はアハズという人間ではなく神御自身である、ということです。神がこの国の王であられるということ。それ故に神がこの国を守られること。このことを信じなければ、あなたは確かにされないのだと神はアハズに語られるのです。ところで9節の最後にある「信じる」と「確かにする」はどちらも「アーメン」の変化語です。確かである、その通りである、という意味です。ですから、ここで「信じなければ」と言っているのは、漠然と神に信頼することではありません。神が言われた言葉が「確かである」「アーメンである」と信じることです。そうすることによって、アハズ自身も南ユダ王国も揺らぐことなく確かにされるのです。これができないからこそ、王の心も民の心も大きく揺らいでいるのです。

 なぜこの小国である南ユダ王国だけは、神が王でいてくださるのでしょうか。それはダビデに対する神の約束があるからです(サムエル下7章)。タベアルの子を王としようとしたアラムとエフライムの企ては、この約束に反するものでした。それゆえに神は、南ユダ王国をこの企てから守られたのです。神が御自身の約束を確かに実現されるお方だからです。しかしアハズは、それを信じることを拒否します。彼が頼ったのは、大国アッシリアの力でした(列王記下16章)。アハズにとって自分を確かなものとしてくれるのは、神の言葉ではなく、超大国アッシリアの力であったのです。この企ては、一時的にはうまく行きます。しかしその後、アッシリアは北イスラエル王国を滅ぼしたのち、南ユダ王国にも攻めてくることになります。アハズ自らの歩みを確かなものとすることにはならなかったのです。

 このようなアハズに対し、インマヌエルと呼ばれる子供の誕生によって神ご自身がしるしをお与えになられました。彼が凝乳と野蜜を食べることになるほどに、南ユダの国土が荒れはてることになります。しかしこのインマヌエルという存在をとおして、一時は荒れ果てるこの国を再興することを神は示されたのです。この後、南ユダ王国の国土はバビロンによって荒れ果てます。その状況を前にした神の民は、この国を再興する救い主、インマヌエルの誕生を待ち望み続けたのでした。こうしてクリスマスにお生まれになったのが、主イエスキリストなのです。この方は、家畜小屋でひっそりとお生まれになりました。大変弱々しい存在です。しかしローマ帝国が滅んだのちも、キリストを王とする神の国は教会という姿で今に至るまで残されています。これこそが、神の言葉が確かであることのしるしなのです。

 

 このしるしを前にして、わたしたちにも問われています。「信じなければ、確かにされない」と。皆さんは、何を確かであると信じているでしょうか。人々を支配する力、自らの能力、誰かとの信頼関係を確かだと信じ、それに頼るならば、自らの歩みは決して確かなものにされることはありません。確かであるのは、神の言葉とその実現としてお生まれになった主イエスキリストです。このお方は、一見するとなんの力もないように見えるのです。そのようなしるしを、神はわたしたちにお与えになったからです。しかしこのお方こそ、神の言葉が確かであることのしるしです。このお方をとおして、神の言葉が確かであると信じるならば、わたしたちの歩みは確かなものとされるのです。