2021年10月31日宗教改革記念礼拝説教「聖書の目的」

 

聖書箇所:テモテへの手紙二3章10~17節

聖書の目的

 

 本日は、宗教改革を記念する日です。宗教改革によって主張されたことがいくつかございます。その中で今日取り上げるのは「聖書のみ」です。宗教改革者ルターがもともと反対したのは免罪符(正確には贖宥状)の販売でした。そのきっかけとなったのが、当時のローマカトリック教会にあった伝統でした。この伝統ももともとは聖書理解の一つなのですが、長い年月を経る中で、聖書本来の意味から離れてしまっている部分がありました。それでもなお、伝統だからということで聖書と同じようにそれが重んじられていました。このことを批判しまして、宗教改革では「聖書のみ」が主張されるようになったのです。そこで、この「聖書のみ」が意味するところをテモテへの手紙から学んでまいりましょう。

 この手紙の宛先であるテモテは若き教会のリーダーでした。しかし彼の周りには、反対者たちがいました。彼らは、どのような人々だったのでしょうか。この手紙では、反対者の例としてすでに何人かの人々が挙げられています(1:15、2:17、3:8)。彼らはもともとパウロと共にいた人々であり、聖書の権威を否定する人々ではありません。しかし聖書理解の違いから、反対者となった人々なのです。テモテの反対者とは、現代の状況でいうならば他宗教の人々ではなく、聖書を受け入れていながらそれを間違って理解している異端に近いのです。この反対者たちが、悪人や詐欺師と言われています(13節)。詐欺師とは、出エジプト記でモーセと戦ったエジプトの魔術師が意図されています(出エジプト7:11)。神の御業に対決し、無きものにしようとする人々です。聖書を重んじながらも、神の御業に対決する人々。それがテモテを悩ませた反対者たちの姿でした。ですから「聖書のみ」という主張は、聖書だけがあれば他はなんでもいいという主張ではありません。サタンも聖書を用いて主イエスを誘惑したのです。異端もまた聖書を用います。今日の箇所の反対者たちもそうです。聖書を用いて、神に逆らうことはできるのです。そのような人々がこの聖書の時代から、すでにいたということです。

 ではなぜ反対者たちは、聖書を重んじながらも神に逆らう者となってしまったのでしょうか。それは、反対者たちのようにはならなかったテモテの姿から知ることができます。テモテの姿が分かるのは、10節と14~15節前半です。ここでパウロが強調しているのは、テモテが聖書に親しんだということだけでなく、その聖書をわたしから学び、わたしに倣ってそれを実践した、ということです。聖書を誰から学んだかというのは、聖書をどのような書物として理解するかとイコールです。ではパウロは、この聖書をどのような書物として教えたのでしょうか。その要約が15節後半~17節です。この書物こそ、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができる。また聖書は、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益であり、この書物によって神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる。なぜなら、聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれたからです。「神の霊の導きのもとに書かれた」は、原文のギリシア語では神の息吹と訳すことができる1語の言葉です。聖書は人によって書かれた書物でありながら、神の息吹が関わっているのです。そしてそれに触れるとき、わたしたち自身もまた神の息吹に動かされるのです。それゆえに聖書は、信頼に足る書物なのです。反対者たちは、このパウロの教えから離れてしまった人々と言えます。聖書を受け入れながら、聖書以外にも従うべきものを加えていったのです。反対者たちのこの姿は、宗教改革当時のカトリック教会の姿と重なる部分があるのです。聖書から離れてしまっていた伝統をも、聖書と同じように重んじたわけですから、聖書以外に伝統も、聖書と同様に重んじていたことになります。それに対して、「わたしたちが立つべき唯一の土台は聖書のみである」と、宗教改革者たちは主張したのです。それはまさに、今日の箇所でパウロがテモテに改めて伝えた聖書理解なのです。

 

 このように「聖書のみ」とは、わたしたちが立つべき唯一の土台が聖書のみだということです。テモテと反対者たちを分けたのは、まさにこの点でした。ただし、聖書以外の伝統がすべて悪いわけではありません。わたしたちの教会もまた、改革派の伝統、特にウェストミンスター信仰基準を大切にしています。それは、その伝統が聖書に従っていると理解しているからです。その意味で、わたしたちが判断し、従うべき基準は「聖書のみ」なのです。しかしわたしたち自身を思い返すとき、自分が本当に「聖書のみ」にとどまっているのかどうかを問われるように思うのです。聖書以外の何かを、聖書と同じように重んじてはいないでしょうか。ビジネス書に書かれているような処世術を、周囲からの評判を、科学技術を、事実上聖書と同等の位置に置いてはいないでしょうか。この点で、テモテの反対者たちの姿は決して自らと無関係ではありません。誰もがときに思うのです。やっぱり聖書だけではこの世界を生きていけない、と。それはわたしたちのなかで、聖書への信頼が揺らいでいるからです。テモテもまた、反対者を前にして聖書への信頼が揺らぎかねない状況にあったでありましょう。そんなテモテを励ますために、パウロは今日の手紙を書いたのです。神の息吹によって書かれた聖書には、わたしたちを救いに導き、神に仕える者としてわたしたちを整える力が十分にあるのです。だからこの聖書に信頼せよ。それが今日のパウロのメッセージです。聖書のみを土台とすれば、わたしたちはそれで十分なのです。聖書に記されたキリストのみで、わたしたちはすべてが満たされるのです。この確かな信頼を、揺らぐことなく持ち続けてまいりましょう。