2021年10月10日礼拝説教「かつての自らと向かい合う」

 

聖書箇所:使徒言行録21章37節~22章5節

かつての自らと向かい合う

 

 ローマ軍に逮捕されたパウロが兵営に連れていかれる途中、自らを告発している民衆に対して弁明を語り始めるのが今日の箇所です。パウロは千人隊長に、弁明の機会がほしいと願い出ます。パウロがギリシア語を話すことのできることに、千人隊長は驚いています(37節以下)。千人隊長もまた、パウロを誤解していたようです。ここで千人隊長が言及しているできごとは、シリア総督であったリキニウスが対応した偽預言者による反乱騒動のことです。その残党によってこの混乱が起きたと、千人隊長は思っていたのです。しかしパウロがギリシア語を話すのを聞き、この人がいわゆる野蛮人の類ではないということに気がついたのです。パウロは自らがどのような人物かを千人隊長に伝えます(39節)。キリキア州というのはローマ帝国の属州であり、タルソスはその州都です。ローマ帝国が統治する主要な町の出身者です。それを聞いて、千人隊長はパウロが人々に話すのを許可します。パウロは階段の上に立ちました。民衆を手で制し、今度はヘブライ語で人々に話し始めます。

 このパウロの弁明のなかで、今日は5節までの、パウロが自らの過去を振り返っている部分を学びます。この部分は、自身の弁明を群衆に聞いてもらうための導入部分です。ここでの群衆とは、先ほどまでパウロを殺そうとしていたユダヤ人たちであり、キリストを信じていない人々です。未信者の方々に話しをする機会は、日本に住むわたしたちにとっても多いでしょう。このような方々にどのように語りかけるのか。これはわたしたちにとって課題であり続けます。ではパウロは人々にどう語りかけたのでしょうか。ここでパウロが意識していますのは、自らと群衆が別種の人間ではないと示すことです。ヘブライ語で話しかけたこと、22:1で「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」と親しく呼びかけている点からも、このことを見ることができます。そしてその後に続くパウロの自己紹介で、言葉としても説明されます。自らがキリキア州のタルソス生まれのユダヤ人であること、そしてこの都で育ってガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けたこと、今日の皆さんと同じように熱心に神に仕えていたことが語られます。最後の「今日の皆さんと同じように」というところにポイントがあります。パウロへの人々の憎悪の原因は、自分たちと違ってパウロが律法を無視している、という点にありました。そうではなく、もともとわたしは皆さんと同じように生まれ育ってきた者であり、異質な存在ではないのだと示すのです。 それどころか、律法に仕える熱心ならばパウロは人並以上でありました(4節以降)。ここで示されていることは、パウロにとっては自らの過去の汚点であり、罪にまみれた自分の姿です。かつてのパウロ自らの姿は、キリスト者を迫害するという面で群衆と何も変わらないのです。彼らは、さきほどまでキリスト者であるパウロを殺そうとしていたからです。

 パウロはここまで自らをさらけ出して、自らがあなたたちと同じだ、と示そうとしました。パウロと群衆の間には、キリストを信じるか信じないかという面での違いはあるのです。しかし根っこのところで、両者は同じなのです。パウロがこのように語ったからこそ、群衆としてもひとまずパウロの弁明を聞いたのでありましょう。仮にここでパウロが、「わたしは立派に神に仕えている聖なる使徒だが、あなたたちは神に逆らっている滅ぶべき罪人だ」などと線引きをしたらどうでしょうか。たとえそれが事実だとしても、群衆としてはもうパウロの弁明を聞くどころではないでしょう。ただ、パウロが群衆と自らを線引きしなかったのは、単に相手に聞いてもらうための工夫ではなく、恵みによって救われたパウロの自己理解であったのです。パウロが自らを振り返るならば、誰よりも先に自分が神に滅ぼされて当然です。しかし驚くべきことにパウロは罪赦されて、使徒として召されていくことになります。これはどこまでも神の恵みによるものです。それゆえに、この神の恵みを受けたか否かという違いの他に、わたしと今日の皆さんとは違いはなく同じだと語ることができたのです。 

 

 わたしたちは、日々未信者の方々に囲まれて生活しています。そしてその中には、今日の群衆たちのようにキリスト教に対して批判的な目を向ける方々もいます。このような方々への接し方において大切なことは、今日のパウロのように自分と相手との間に線を引かないことです。線を引くことは簡単にできるのです。極端な表現をするならば、「信じているわたしは天国行きだが、信じないあなたたちは地獄行きだ」といった具合に。しかしわたしたちがかつての自らを振り返るとき、キリスト者でない方々と自らとの間にそのような線を引くことはできません。わたし自身もまた、救われるべくもない罪人であるからです。救われてもなお、罪を犯し続ける罪人だからです。この点において、わたしたちは未信者の方々と同じです。線など引くことはできません。しかしそのようなわたしが今、キリストの十字架の故に救われているのもまた事実です。罪人のわたしが救われた。だからこそ救いは神の恵みなのです。その恵みに与っているわたしたちだからこそ、キリスト者でない方々との間に線を引くことなく、彼らに語りかけることができるのです。わたしも、今日のあなたと同じなのだと。そしてわたしが救われたように、あなたにも神の救いの恵みが備えられているのだと。ですから、罪人でありながら救いの恵みを受けた者として、世のあらゆる人々と関わるキリスト者であろうではありませんか。完全無欠で完璧なキリスト者としてではなく、罪を犯し弱さや欠けもあり苦しみながらも恵みによって救われたキリスト者として、歩んでいこうではありませんか。