2021年10月3日礼拝説教「誤解と敵意」

 

聖書箇所:使徒言行録21章27~36節

誤解と敵意

 

 誤解や思い込みは本当によく起こります。それはわたしたち人間にとって、必然的なものなのかもしれません。今の時代だけのことではありません。聖書の時代においても、同じだったようです。今日のお話でパウロが逮捕されたのもまた、ユダヤ人たちの誤解によるものでした。そして敵意を向けられてしまいました。前回のお話でパウロは、エルサレム教会内のユダヤ人たちに広まっていた誤解を解くために神殿に出入りすることになりました。誤解を解くために神殿を出入りしていた結果、新たな誤解が生じました。皮肉な結果を生んでしまったのです。誤解をしてしまったのは、アジア州から来たユダヤ人たちでした。アジア州というのは具体的にはエフェソのことです。彼らは巡礼のために、はるばるエフェソの町からエルサレムに来ていた人々です。当時の旅は命がけです。その危険をおしてまでもエルサレムに行くほど神への熱心を持っていたのが、今日の騒ぎの発端となった人々です。パウロはすでに2年にわたってエフェソに滞在しています(19章)。おそらくエフェソでのパウロの活動を、彼らは苦々しい思いの中で見ていたでありましょう。そんな彼らがエルサレムの神殿の境内でパウロを見つけ、彼を捕えて叫びました(28節)。

 今すぐにパウロを捕えなければならないと彼らが主張した根拠は、主に後半部分「ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚した」との理由によります。エルサレム神殿は外側から内側の至聖所に至るまでの間に、誰がどこまで入ることができるかが決まっていました。異邦人はここまで、ユダヤ人の婦人はここまで、ユダヤ人の男性はここまで、祭司はここまで、といった具合です。当時の神殿において、この区分けが非常に大切にされていました。エゼキエル44:7などにその根拠があります。しかしそれ以上にユダヤ人たちがこのことに敏感であった理由は、歴史も関係していると考えられます。旧約聖書が書かれた時代が終わってからパウロの時代に至るまでに、エルサレムは何度か他国からの侵略を受け陥落しています。主なものはアンティオコスエピファネスによるものと、ローマの将軍ポンペイウスによるものです。この両名とも、陥落後に神殿の聖所に入ってユダヤ人たちの反感を買っています。ユダヤ人たちにとっては、神殿の聖所に異邦人が入ることと他国からの侵略はセットで記憶されています。だからこそ、神殿の禁じられた場所に異邦人が入ってしまうことにはなおさら敏感であったと考えられます。そのことが、パウロがギリシア人を神殿に連れ込んで神殿を汚したとの叫びが、都全体の大騒ぎへと発展してしまった一因でありましょう。

 ただ、パウロがギリシア人を神殿に連れ込んだというのは、エフェソから来たユダヤ人たちの誤解でありました。彼らはパウロが都でトロフィモと一緒にいるところを見ていました。そして神殿にいるときも、パウロを見ただけでトロフィモも一緒だと勘違いしたのです。パウロを捕えた人々は、パウロを殺そうと暴力をふるいました。ここでローマ軍が介入します。千人隊長が部下の兵士と共にかけつけました。それによってパウロへの暴力はおさまりましたが、千人隊長はパウロを捕えて二本の鎖でつなぐよう命じました。ここにおいて、預言者アガボの預言(20:11)が実現したわけです。千人隊長がパウロを取り調べをしようとしました。しかし周囲が騒々しく、真相をつかむことができません。ですから、落ち着いて取り調べができる兵営にパウロを連れて行くように命じました。それでも群衆の行動は激しく、兵士がパウロを担がなければならないほどでありました。

 すべての発端は、エフェソから来たユダヤ人たちの誤解です。彼らはなぜこんな誤解をしてしまったのでしょうか。それは彼らが、もともとパウロに対して反感をもっていたからです。だからこそ、それを証明してくれるような都合のいい事実を、よく確認もせずに信じてしまったのです。誤解から敵意が生まれたのではありません。敵意が誤解を生んだのです。その根底にあるのは、自らに反する人々や考えを排除しようとする思いでありましょう。しかしながら神の救いの御業は、人の思いを超えるものです。この神の言葉に聞こうとするならば、自らの思いや考えを手放す必要があるのです。それをする場所こそ、礼拝と祈りの場である神殿でした。しかしこの神殿で、エフェソからきたユダヤ人たちは自らの考えを第一とし、周囲の人々に対する敵意と偏見を持ち続けました。その結果、神殿という礼拝の場ですら騒動と暴行の場となってしまったのです。

 

 わたしたちもまた、今礼拝の場に集っています。礼拝に出席できること自体が大きな恵みです。けれどもその恵みに与るわたしたちは、いったいどのような思いで今この場にいるのでしょうか。自らの思いを握りしめたまま、それに反する兄弟姉妹に敵意を向けたまま、この場に集ってはいないでしょうか。今日、誤解をしてしまったのはエフェソから来たユダヤ人の巡礼者でした。彼らは危険を犯してまで神殿へ、すなわち礼拝の場へと来たのです。彼らの持っていた礼拝出席への熱心さは相当なものです。危険を犯してまで神殿に来た彼らの姿は、このコロナ感染の危険を犯してまで会堂で礼拝出席しようとしているわたしたちの姿に重なる部分があるように思うのです。わたしたちもまた危険を冒し、厳しい状況を経て、この礼拝へとたどり着きました。だからこそ、ただ集うのではなく、神を求めて集うものであろうではありませんか。自らの思いを手放して、敵意を捨てて、誤解や思い込みを超えて、神の救いの御言葉を求める者として礼拝に集おうではありませんか。そのときにこそ礼拝に集うわたしたちは、真の平和と喜びに満たされるのです。