2021年9月26日秋の特別集会説教「お金との付き合い方」

 

聖書箇所:マルコによる福音書12章41~44節

お金との付き合い方

 

 秋の特別集会で取り上げることにしたのが「お金」です。わたしたちの身近にあるお金との付き合い方について聖書から考えたいと思うのです。どうも日本においては、お金ちに対してネガティブな印象があるように思います。これは逆の面もありまして、お金を持っていないことがイコール正義であり、無条件に守られるべきだという論調もあります。聖書においても、金持ちが退けられて、貧しい者が目を留められるお話がいくつかあります。今日の聖書の言葉もまた、そのような箇所の一つと言えるでしょう。ただ聖書全体を見たときに、お金持ちは神の御前に退けられて、貧しい者はそれだけで神の恵みを受ける存在として描かれているわけではありません。例えばアブラハムは大変な金持ちでしたが、神に選ばれました。この人から神の救いの御業がなされていくことになりました。十字架にかかられた主イエスを葬った人もまた、地位の高い金持ちでありました。反対に、弱い人々を偏って、必要以上にかばうことを禁止する規定が旧約聖書に記されています(レビ19:15)。ですから聖書全体を見ますと、金持ちが退けられ、貧しいことが推奨されているとは言えません。そのことを、まずははっきりと語っておきたいと思います。

 さて今日のお話では、「たくさん」ですとか「すべて」という言葉が多用されています。ですから「神の御前にたくさんささげたのは誰か」が今日のお話のテーマです。神の御前に豊かなのは誰か、本当の豊かさとは何か、と言い換えてもいいでしょう。そして神の御前における豊かさは、神にささげた献金額とは関係ないようです。一般的には、ささげた額の多い人が称賛されます。この基準でいえば、たくさん入れた大勢の金持ちは誰よりも称賛されるべきでしょう。実際に彼らは周囲の人々から称賛されていました。しかし神の基準からみるならば、貧しいやもめこそが誰よりも沢山入れたのだと主イエスは言われます。彼女が入れた献金は、レプトン銅貨二枚でした。レプトン銅貨は当時流通していたお金の最小のお金です。神はこのやもめの何をそこまで評価されたのでしょうか。それは彼女が神に全信頼を置いていた点です。神への信頼度。これがキリスト教における信仰です。やもめの献金に現れた神への信仰、神への信頼を、神は大いに喜ばれたのです。では大勢の金持ちはどうだったのでしょうか。彼らは確かに多額の献金をしました。しかしそれは、有り余るなかから入れたと主イエスは指摘されます。彼らはまず、自分が安定して生活できる分を確保しました。そのあまりのなかから、献金をしました。その献金すらも、彼らにとっては自分の信心深さを周囲の人々にアピールするためのものでした。彼らが何よりも大切にしたのは、自分自身の体裁でした。神に信頼するのではなく、周囲から認めてもらえる自分自身に信頼していたのです。そのような自分自身を頼りにする生き方は、いくらお金を持っていようとも神の御前には貧しいのです。その点やもめはどうだったでしょうか。彼女はレプトン銅貨を二枚持っていました。レプトン銅貨ならば、二枚入れようが一枚入れようが周りの人々の反応は変わらないでしょう。しかし彼女は二枚とも賽銭箱に入れたのでした。彼女の視線は、神のみに向いていました。主イエスはこのやもめの献金について、「彼女は生活費の全部を入れた」と評価しておられます。生活費とは、もともと「ビオス」という生命全体を指す言葉です。彼女はレプトン銅貨をとおして自身の命すべてを神に捧げたのです。それを神は喜ばれたのです。ここに大勢の金持ちと、貧しいやもめの違いがあります。

 豊かに生きることにおいて、自らが稼いだお金の額や、神に捧げたお金の額は問題にはなりせん。大切なことは、それをなんのために用いたか、誰のために用いたかです。そこにこそ、その人の信仰が現れます。その人が一体何を大切に生きているかが現れるのです。大勢の金持ちのように、自分のために用いたとしても、いずれ死を迎えるときにそのお金は無駄になるでしょう。大変むなしいのです。では、むなしくないお金の使い方とはなんでしょうか。それは自らの死を超えて価値が残ることに用いることです。聖書の教えている「死を超えた生き方」とは、主イエスキリストと共に歩む生き方です。この方はわたしたちのために十字架上で死に、その死を打ち破って復活されました。この方と共に歩み、この方に頼って歩むとき、わたしたちの歩みは死を超える価値を持つのです。では、主イエスに頼る生き方とはなんでしょうか。生活費すべてを教会に寄付する生き方ではありません。わたしたちは、そこで捧げなかったお金で生きていくのです。大切なことは、神にささげたあと財布に残ったお金をどう使うかです。そこにわたしたちの信仰が表れるのです。

 

 一切自分のために使うなと言いたいわけではありません。自分のために使うときでさえも、それを神のために用いることはできます。なぜなら神はこのわたしを大切にお造りくださったからです。だから飲み食いして自らの命をつなぐことは、神が大切に造ってくださった自分を大切にすることでもあるのです。趣味にお金を使い、心の健康を保つこともまた同じことが言えます。あらゆることを神の栄光を現わすために用いること(一コリント10:31参照)。これが聖書の教えるお金の付き合い方です。神は永遠に生きておられるお方です。そして主イエスキリストをとおして、わたしたちにも永遠の命をお与えくださるお方です。この方のためにお金を用い、また自らの人生すべてをこの方のために用いるとき、わたしたちは永遠に残る価値ある生き方を送ることができるのです。本当に価値あるもののためにお金を用いること。これこそ、お金との正しい付き合い方なのです。