2021年9月12日礼拝説教「みんなに分かってもらうために」

 

聖書箇所:使徒言行録21章17~26節

みんなに分かってもらうために

 

 第三回目の宣教旅行を終えてエルサレムに到着したパウロは、カイサリアの弟子たちの配慮によってムナソンの家に滞在していました。そこで兄弟たちは喜んでパウロを迎えてくれました。キリスト者が同じキリスト者を歓迎する。それは当たり前のことのようにも思えます。けれども今日の箇所を見ますと、それが決して当たり前のことではないようなのです。教会には、本当に様々な人々が集っています。それに伴う誤解、意見の相違、対立。教会にはそのようなことが付きものであり、避けて通ることはできません。このことに対して、エルサレム教会とパウロはどのように対処したのでしょうか。

 エルサレムに到着して兄弟たちに歓迎されたパウロたち一行は、翌日ヤコブを訪ねます。彼は主イエスの兄弟であり、このときのエルサレム教会のリーダーでありました。また律法を守ることに非常に熱心な人でありました。彼のところに、パウロたち一行は会いに行きました。その目的は各地で集められたエルサレム教会への献金を渡すため、そして宣教旅行の結果を報告するためでもありました(19節)。パウロは自らが各地でなしてきたあらゆる奉仕を、神が異邦人の間でなしてくださった御業として報告しました。それを聞いた人々は皆、喜びつつ神を賛美したのでした。ここまでは、大変喜ばしい会見の様子が記されています。しかし20節からは、エルサレム教会内にありました一つの懸念事項がパウロに対して伝えられます(20〜22節)。幾万人というのは多少誇張されているかもしれませんが、かなりの数のユダヤ人キリスト者がそこにいたことは確かです。これらの人々がパウロに対して良くない噂を聞き、彼に不信感を抱いていていました。確かにパウロは、救いを得るために割礼や慣習を行う必要はもはやないと主張しました。しかしそれはあくまでも異邦人に対してです。ユダヤ人たちに対してまで、これらをやめよと言ったことはありません(一コリント7:18,19参照)。それまで割礼や慣習を守ってきたユダヤ人たちがキリストを信じたからと言って、その習慣を捨てるのはむしろ不自然です。ユダヤ人にはユダヤ人の信仰の守り方があり、異邦人には異邦人の信仰の守り方があるのです。大切なことは、主イエスキリストを救い主と信じることです。これがパウロの主張の根本にあることです。しかもこの内容はパウロの自分勝手な主張ではなく、教会会議で決まったことです(25節および15章参照)。しかしながら、パウロが全ユダヤ人に対して律法を捨てるように教えているという根も葉もない噂が、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者たちに広まっていたのです。パウロがエルサレムに来たことを彼らが知ったら、教会内に混乱が起こる恐れがあります。このことに対して、パウロの話を聞いていたエルサレム教会の長老たちは懸念していたのです。

 そのための対処としてパウロに提案されたことが、23~24節です。誓願に伴って髪を剃るという規定は、民数記6章のナジル人の誓願において記されています。誓約した期間が終了したときに、神殿で髪を剃ることが定められています。ただ、この規定に限らず誓願に伴って髪を剃る慣習は行われていたようです。パウロもケンクレアイで請願にともなって髪を剃っています(18:18)。ここで出てきた四人の請願が、ナジル人の規定によるものか否かは分かりません。しかしいずれにしても、請願に伴って必要となる費用をパウロが協力することによって、彼が決してモーセの律法を軽んじているわけでも、全ユダヤ人に対して慣習を行うことをやめさせようとしているわけでもないことは明らかになります。そしてパウロはこの提案に従って行動しました(26節)。

 このような対処の仕方について、わたしたちも学ぶ点があるように思うのです。パウロを迎えたエルサレム教会の長老たちですが、兄弟愛を持って冷静にパウロたち一行を受け入れています。20節でパウロに「兄弟よ」と呼びかけています。当たり前のような呼びかけにも見えます。けれども、エルサレム教会のユダヤ人たちの間ではパウロに対する批判的なうわさが広まっている状況です。この噂を聞いて、パウロに対して批判的な態度をとってもおかしくなさそうです。しかしヤコブをはじめとするエルサレム教会の長老たちは、このような噂や周囲の空気に流されず、パウロを主にある兄弟として受け入れています。今も昔も、教会には噂が広まりやすい場所であるように思います。しかしそのようなことに流されず、兄弟姉妹と交わりを持つ大切さを今日の部分から思わされます。パウロもまた、長老たちからの提案を重んじて行動します。パウロが神殿に行くことは、大変な危険を伴います。実際に27節以降を見ますと、そこで彼は捉えられることになります。それでも彼は、教会の一致のために神殿へと向かうのです。

 

 今の世の中を見ておりますと、これほどまでに噂によって対立が深まっているときはないのではないかと思うのです。相手を直接見て知ろうとすることなく、第三者が語っている批判的な言葉をとおして相手への不信感を募らせている。それが今の状況ではないでしょうか。しかし主イエスは違いました。周りの人々が「あいつは罪人だ、関わるな」と言っていた徴税人たちと、主イエスは直接関わられたのです。主イエスは、十字架をとおしてわたしたちの罪や痛みにも直接関わってくださるお方です。だからこそわたしたちも、相手と直接関わること、相手という存在を直接見て知るということを大切にしたいのです。今はこの「直接」が難しい状況です。しかしこのようなときだからこそ、色眼鏡で相手を見るのではなく、また周囲の空気によって相手への態度を決めるのでもなく、兄弟姉妹の存在そのものを知り、受け入れ合い、配慮しあう教会でありたいのです。