2021年9月5日礼拝説教「覚悟して進みゆく」

 

聖書箇所:使徒言行録21章1~16節

覚悟して進みゆく

 

 本日はパウロの三回目の宣教旅行の最後の部分、エルサレムへ帰る道筋を共に辿ってまいりましょう。パウロたち一行がどのような道筋でエルサレムへ向かったかが、今日の箇所では記されています。また、その道の途中ティルスとカイサリアにおいて、同じような出来事が起こったことが記されています。これらの出来事から、エルサレムへと向かうこの道筋がどのような意味を持っていたのかが明らかにされています。

 まず本日の箇所でパウロたち一行がたどった道筋を見てみましょう。1節において、ミレトスからコス島とロドス島を経由してパタラへと至ったことが記されています。このパタラからフェニキア行きの船を見つけたので、その船に乗ることにしました。600キロを超える長距離航海をするというこの選択は、パウロが先を急いでいたことが反映されていると思われます。フェニキアはシリア州の一地方で、現在のレバノンの国がある辺りの地域です。キプロス島を左手に見ながら航海し、フェニキアの町の一つであるティルスにパウロたちは到着しました。この町でパウロは、弟子たちを探して七日間滞在しました。ティルスの弟子たちの見送りを受けて出発したのち、プトレマイスでも兄弟たちに挨拶して一日を過ごし、翌日カイサリアに着きます(7~8節)。そして最後に15節で、カイサリアからエルサレムへ移動します。この移動にはカイサリアの弟子たちも同行しました。彼らがムナソンという人の家に案内をしてくれたのです。

 このようなパウロたち一行の道筋を踏まえて、この旅の途中で起こった出来事を見てみましょう。4~5節にはティルスでの出来事が、そして8節以降ではカイサリアでの出来事が記されています。まず4節からのティルス出来事です。さきほど見たように、長い航海を終えたパウロはここで七日間を過ごしました。するとティルスの弟子たちが“霊”に動かされて、エルサレムへ行かないようにとパウロに繰り返して言いました。“霊”とは、御霊すなわち聖霊を指します。口語訳では「霊の示しを受けて」と訳されています。この部分をどう理解するかは、いくつかの説があります。それらの説に共通しているのは、聖霊がパウロを止めようとしたのではないということです。ティルスの弟子たちは、これからパウロの身に起ころうとしていることを聖霊に示されました。それをうけて、パウロを慕う思いから「そのような危険な行為をするな」とパウロを説得したのです。しかしパウロはその言葉を聞き入れず、滞在期間が過ぎると旅を続けることにしました。あえて危険な道を進みゆくパウロを、弟子たちは皆、妻や子供を連れて見送り、共に祈って送り出しました。続いて8節以降のカイサリアでの出来事です。この町でパウロたち一行は、福音宣教者のフィリポの家に滞在していました。ある日彼の家に、アガボという預言者が下ってきました。そしてパウロの帯を取り、自分の手足を縛って、聖霊のお告げを語るのです(11節)。こういった行為を伴った預言は、旧約聖書において見られます(イザヤ20章、ホセア1章、エゼキエル4章など)。アガボも自らの行動で示しながら、これが神のご計画であると預言しました。それを聞きますと、その土地の人と一緒になってわたしたち(すなわちパウロの同行者)までもが、エルサレムへ上らないようにとパウロを説得します。それに対するパウロの返答が13節です。パウロが自分たちの勧めを聞き入れようとしないので、人々は「主の御心が行われますように」と言って口をつぐみました。

 

 これらのやり取り(特にカイサリアでのやり取り)で注目すべき言葉が二つあります。まず11節のアガボの預言です。この言葉は、主イエスがエルサレムで起こることになる自らの十字架を予告した言葉につながっています(ルカ18:31~33)。続いて注目すべき言葉は14節の「御心が行われますように」です。この言葉は、ゲッセマネにおける主イエスの祈りとつながっています(ルカ22:42)。つまり今日の箇所におけるエルサレムへの旅路は、主イエスが十字架にかかられるためにエルサレムへ向かわれたその歩みと重なります。パウロは十字架にかかられた主イエスの御跡に従う覚悟をもって今エルサレムへと向かっているのです。しかしパウロだけがそのような覚悟をもって進んでいるのはありません。なぜなら11節の預言の言葉も、14節にある神の御心の実現を求める言葉も、パウロの言葉ではないからです。パウロの周りにいた人々も、すでにパウロを送り出した弟子たちも同じ覚悟をもってパウロを見送ったでしょう。まさに教会全体で、主イエスの歩まれた十字架への道筋を進んでいるのです。わたしたちの教会もまた、同じ歩みへと招かれています。ただしこの歩みへと踏み出すのは、覚悟が必要です。それは、恥と苦しみの極みである十字架への歩みだからです。好き好んで進むような道筋ではありません。だからこそ覚悟がいるのです。しかしこの歩みは、十字架では終わりません。その先に、復活の希望が約束されています。さきほどのルカ福音書の主イエスの予告の言葉にも、はっきりと示されています。人の子は三日目に復活する、と。十字架にかかるためにエルサレムへ向かわれた主イエスの道筋をたどる教会の歩みには、揺るぎない希望があるのです。だからこそこの希望に向かって、十字架に向かう主イエスの御跡をたどっていこうではありませんか。主イエスはこの道のりをお一人で歩まれました。けれどもわたしたちは一人ではありません。共に教会に結ばれた兄弟姉妹と共に、主イエスの御跡をたどるのです。そしてなによりもそのようなわたしたちの歩みを、主イエスキリストご自身が共に歩んでくださいます。ですから今日覚悟を新たにして、十字架へと向かう主イエスの歩みへと共に踏み出していこうではありませんか。