2021年8月22日礼拝説教「神と恵みの言葉とにゆだねる」

 

聖書箇所:使徒言行録20章25~38節

神と恵みの言葉とにゆだねる

 

 エフェソの長老たちへパウロが語ったお別れの説教の続きの言葉を、共に見てまいりましょう。今日見ます後半部分、特に28節以降で、パウロから長老たちへの具体的な指示がなされます。この前半と後半の間をつなぐのが、25~27節です。この25節において、これがお別れの説教であることが明らかとなります。パウロからエフェソ教会の長老たちへ、信仰のバトンタッチが行われようとしています。パウロと同様にわたしたちもまた、誰もがいずれこの教会を去る時がきます。それは引越しによってかもしれませんし、世を去るときかもしれません。いつか自分もこの教会を去る。その思いの中で、教会生活を送ることは大切なことです。今日の箇所では、パウロがそのバトンを手渡します。渡すべきものを渡し切ったパウロは「誰の血についても、わたしには責任はない」と言います。教えるべきことはすべて教えたのだから、自信を持って教会に仕えなさい。このような思いで長老たちの背中を押しているように、わたしには思います。

 そのうえで、パウロから長老たちへの具体的な指示が28節から語られていきます。そこで命じられていることの中心は、あなたがた自身と群れ全体にとに気を配れ、です。彼らがそうすべき理由は、聖霊があなたがたを群れの監督者に任命なさった、という事実にあります。それはどのような群れかというと、神が御子の血によって御自分のものとなさった教会です。つまり、彼らが監督者として指導する教会は、自分の所有物ではなく神からの借り物なのです。長老などの役員に限らず、わたしたちも皆、神のものである教会をお借りしてその世話をするよう召されています。パウロは長老たちに、そのことを思い起こさせるのです。パウロがこのことを命じるのには理由があります。パウロが去った後に教会の内外に混乱が起こることになるからです(29~30節)。狼の目的は、自分の腹を満たすことです。そうゆう人々が教会に入り込んで来て、群れを荒らすのです。教会の中も油断できません。長老として召された者の中からも、邪説を唱える者が現れます。その目的は、弟子たちを自分に従わせることです。狼も、邪説を唱える者も、目的は同じです。神のものであるはずの教会を、自分の物にすること。それによって自分を満たすことです。そのような者が外から入り込まないように、そして自分自身がそのような者とならないように、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。これがこの説教でパウロが伝えたい中心です。しかし、具体的にどのような人々に注意すべきか、自らのどのような点に気を付ければよいか、基準が必要です。そのためにパウロは前半部分で自らの歩みを示したのです。そして31節からもう一度、自らの行動を語りなおします。これらのパウロの歩みは、彼自身がが伝えていた神、そして神の恵みの言葉に従う行動としてなされたものです。これまではパウロが直接教え、その手本を自らの行動によって見せることができました。しかし今後は、もうできません。ですからこれからは、これまでわたしが伝えてきた神と、その恵みの御言葉にあなたがたをゆだねるのです(32節)。神の恵みの言葉こそ、パウロが長老たちに手渡した信仰のバトンです。これは力のない死んだ言葉ではありません。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです(32節)。御言葉に従って教会を導くことの具体的な内容が、33~35節で語られていきます。まず勧められていますのは、自らの手で自らを満たすよう努力することです。まず自分の生活を整えるように勧めます。そのうえで、共にいる人々のためにも働くのです。このようして弱い者を助けるようにと、パウロは長老たちに勧めます。弱い者とは、病気など体の弱さを指すとともに、信仰的な弱さをも指します。ですから体の弱さを抱えている人々を助けるだけでなく、信仰的に未熟な者、誘惑に負けやすい人々が信仰に留まり続けることができるように支えること。これが教会に仕える者として召された働きの中心です。その総括として『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた主の言葉を思い出すようにせよと、パウロは命じます。この言葉は、主イエスの歩み全体、何よりも十字架でご自身を与えられた生き方を示すものです。神の言葉と、そこに示された主イエスに従って生きるように。これこそパウロがここで長老たちに渡そうとしている信仰のバトンです。

 教会においてわたしたちが次の世代の人々に受け継ぐことのできる信仰のバトンは、聖書の示す神と、その神を示す神の言葉をおいて他にありません。しかしそれは杓子定規に、頭ごなしに教えるだけで渡すことのできるものではありません。聖書にはこう書いてありますから従いましょう、と言ったところで、相手にとっては関係ないわけです。大切なことは、信仰のバトンを渡す側が喜んで御言葉に従っていることです。自らが御言葉に従って生きることをとおして、信仰のバトンは継承されていくのです。御言葉に従う生き方とは、「受けるよりも与える方が幸いである」と言われた主イエスに従う生き方です。見返りを受けるために働く生き方ではなくて、兄弟姉妹の信仰が強められるために自らを与える生き方です。完璧な歩みをする必要はありません。欠けを多く持つわたしたちが、なおキリスト者として御言葉に生きようとすることが、御言葉の力となるのです。そのような働きをなす者として、聖霊はわたしたち一人一人を召しておられるのです。

 

 コロナウィルスのゆえに今は離れていますけれども、そして会うことはかないませんけれども、しかしわたしたちは一つの聖霊に結ばれています。ですからそれぞれの場所で信仰のバトンを渡すべく、御言葉に従って共に生きようではありませんか。