2021年8月15日礼拝説教「神の区別」

 

 

聖書箇所:マラキ書3章13~18節

神の区別

 

 毎年この時期の日曜日に、平和を覚える主日として旧約聖書の預言書から御言葉を聞くことにしています。教会は、キリストに従い主の平和を生み出すよう召されています。しかし戦時中における日本の教会の歩みを振り返りますと、必ずしもそのような歩みができたわけではありませんでした。なぜ時代の波に抗いきれなかったのでしょうか。様々な要因があるでしょう。その要因の一つを今日の御言葉から学びたいのです。

 今日の箇所は、主なる神の告発の言葉から始まります(13~15節)。ここで神が「あなたたち」と呼んでいるのは、明らかに神の民です。そして彼らは、必ずしも好き勝手に生きていたわけではありません。形式的には神の律法すなわち聖書の言葉を守り、礼拝や祭儀を行っている人々でした。今のわたしたちに置き換えるならば、礼拝は休まず出席し、奉仕にも時間を使って熱心に行っている人々です。しかしそのような人々が言うのです。神に仕えることはむなしい、と。戒めを守っても、主の御前を喪に服している人のように歩いても益がないと。もちろん大っぴらに、このように言っていたわけではないでしょう。しかし心の中では違ったのです。14節の「喪に服す」というのは、悲しむという意味です。この当時、神の民であるがゆえに虐げられ悲しまなければならない現実がありました。それは苦しいだけだ。何もいいことがない。むしろ、高慢なものを幸いと呼ぼう。このように、神の民が言っているのです。幸いと呼ぶ。これはマタイ5章の山上の説教で、主イエスが「幸いである」と繰り返された言葉と同じです。主イエスは、悲しむ人々は幸いであると語られています。しかし神に従っているはずの神の民が言うのです。「悲しむ者は不幸だ。高ぶって悔い改めず、神など無視して生きる方が幸いではないか」と。神の民は神に従いながら、心の中では神に従っていない人々に憧れていたのです。このような人々は、世との軋轢とは無関係でうまく立ち回り、何の不利益も被ことなく栄えていたからです。

 現代を生きるわたしたちはどうでしょうか。今日のところでわたしが真っ先に思い出したのは、自らの子どもの頃の体験です。日曜日に教会に連れて行かれながら、この日も遊びに行くことができる大多数の友人たちに憧れる思いがありました。クリスチャンホームの子供なら、おそらく誰もが経験する気持ちではないでしょうか。その気持ちを教会の大人に話しますと、大概このような言葉が返ってくるわけです。

「礼拝は恵みなのだから、我慢して教会に行きなさい。」

我慢して、という言い方そのものに、大人の側にも世の人々へのあこがれが見え隠れします。今は我慢して主に仕えても、自分が望むようなご褒美は待てど暮らせど与えられない。我慢せず、自分の望みどおりに生きている人々が幸いだ。本当はうらやましい。それがこの御言葉における神の民の姿です。そしてこれが、戦争に加担してしまった戦時中の教会が心の中に持っていたことではないでしょうか。世の人々の生き方に憧れながらも、我慢して主に仕える生き方は長続きしません。形式上では神に仕えながらも、どこかで憧れの歩みに引っ張られていくことになるのです。戦時中の教会は、礼拝をやめたわけではありません。聖書を読まなくなったわけではありません。見かけ上熱心に神に仕える行動をしながら、世との軋轢がない神なき人々の憧れの生き方に傾いていったのです。この姿は決してわたしたちと無関係ではありません。わたしたちは、キリスト者であるがゆえに受ける軋轢に悩んでいます。軋轢や悩みのない生き方にあこがれるのは、ある意味で当然です。

 一方で主は、世の人々を幸いだと言わざるを得ない神の民の嘆きの言葉に耳を傾けてくださいます(16節)。そして、神の民として生きることの幸いが、どこにあるのかを示されるのです(16節後半~18節)。神の民として歩むことの幸いの一つ目は、わたしたちが主の御前に記録の書に書き記されていることです。わたしという存在が、永遠に神に覚えられるということです。それゆえに神の民の生涯は、決して一時的に過ぎ去るような空しいものではないのです。17節では、神の民として受けることのできる幸いがさらに示されます。主が備えてくださるその日に神の宝とされ、神の子として神の憐みを受ける者とされるのです。たとえ世の歩みにおいて軋轢の中で悩み、悲しんでいたとしても、いずれはそれをはるかに超える永遠に続く大きな祝福が与えられるのです。これこそ、正しい人、すなわち神に仕える者に与えられる恵みであり幸いなのです。しかし神に逆らう人、神に仕えない者は、この地上でいくら栄えていようとも、この恵みを受けることができません。これが神の区別です。この区別は、主イエスキリストの十字架によって実現しました。主イエスキリストの十字架によって救われ、正しいと認められ、恵みのうちに神に仕える者は、神の憐みの中で神の宝として生きる、決して空しくない歩みが与えられるのです。

 

 キリスト者として歩むことにおいて、周囲との摩擦はさけられません。それまで悩みもしなかったことを悩まなければならないこともあります。そのようなわたしたちの痛みを、神はよくご存じです。そしてその痛みや悩みをはるかに超える大きな恵みを祝福を、キリストの十字架をとおして示してくださっています。ときに神とは関係なく生きている世の人々の生き方がうらやましく思えるときがあるでしょう。しかしそれ以上に、神が神の民に与える恵みは大きいのです。この大きな恵みを求めて生きるならば、わたしたちは世との軋轢のなかでも福音にとどまって生きることができるのです。わたしたちは我慢して主に仕えるのではありません。より大きな恵み、永遠に続く希望を仰ぎ見て、主に仕えるのです。