2021年8月8日礼拝説教「命の用い方」

 

聖書箇所:使徒言行録20章17~24節

命の用い方

 

 エフェソの南にあるミレトスに到着したパウロは、そこからからエフェソへ人をやって教会の長老たちを呼び寄せました。そして別れの説教をするのが、今日から20章の終わりに至るまでのお話です。本日はその前半部分を学んでまいります。この長老たちは、この先28節では監督者とも呼ばれています。ですから今日のパウロの説教は、教会を治め、教会に集う人々を導く立場にいる人々に対して語られています。ここでパウロはまず、自らのこれまでの行動を長老たちに思い起こさせます(18節)。いきなり「ああしろ、こうしろ」という指示を出しません。このコロナ禍のなかで「外出を自粛しましょう」と呼びかけても、もし呼びかけた人が外出するならば人々は言うことを聞かないでしょう。わたしもこうしてきたのだから、あなたがたも見習いなさい。このようなメッセージこそ、人を動かす力を持ちます。まずパウロが自分の歩みを長老たちに思い起こさせるのは、長老たちに自分と同じ思いで教会を治めてほしいからです。

 このパウロがどのような生き方をしてきたかが19節から語られていきます。19節の「取るに足りない」というのは、自らの能力が取るに足りないのではなく、働きの見返りを取るに足りないという意味です。パウロは、苦しい状況のなかで涙を流しながら、ユダヤ人の数々の陰謀によってふりかかった試練に遭ってきました。これはエフェソの町のことだけではなく、これまでのパウロの歩み全体を総括して、このように語っているのでしょう。彼は誰よりも苦難を身に受けて主に仕えてきました。それでもパウロは、人々に見返りを要求しませんでした。それどころか彼は、エフェソの兄弟姉妹のためにあらゆる良いものを与え続けてきました(20~21節)。役に立つことをひとつ残らず教えた場所として、公衆の面前と方々の家が挙げられています。公衆の面前とは、9節においてティラノの講堂で教えていたことを指します。そこ教えただけでなく、彼は夜の時間に家々を個別に訪問しました。そして神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。文字通り、朝から晩まで、人々のために教えと励ましを与え続けたのです。

 このように見返りを求めず与え続けたパウロが、これからしようとしていることが22~24節です。彼は、自らに与えられた使命としてエルサレムに行こうとしています。その目的を、パウロはローマの信徒への手紙で書いています。聖なる者に仕えるため、具体的にはエルサレム教会を支えるための献金を届けるためです(ローマ15:25.26)。しかしそこでは、投獄と苦難が待ち受けていることが、聖霊によってはっきりと証しされています。23節に「どんなことがこの身に起こるか、分かりません」とありますが、投獄と苦難が起こることははっきり分かっているのです。ですから、投獄と苦難の結果自分が死ぬのか生きのびるかは分からない、というのが23節の意味です。自らの身の安全のことを考えるならば、パウロはエルサレムに行かない方がいいのです。それでもパウロは、主から与えられた任務を果たし、福音を証しするために、エルサレムへ行こうとしています。このわたしの生き方、命の使い方を手本とせよ。このように、パウロは長老たちに教えようとしているのです。

 パウロの生き方から、「こう生きてはならない」という否定的な面と「こう生きなさい」という肯定的な面の二つの面から教えられます。否定的な面からは、何かを得るために命を用いてはないということです。わたしたちが日常を生きていますと、お金や人からの承認や自らの幸せといった、自分が何かを得ることが生きる主目的であるかのような考え方にさらされます。このような見返りを求めて頑張る生き方を、わたしはしてこなかったとパウロは自らの生き方を語っています。何かの見返りを求めて教会に仕えるような命の用い方をするな。これが否定的な面からのパウロの教えです。次に肯定的な面から教えられるのは、誰かに与えるために、そして主に仕えるために生きよということです。パウロは、エフェソの兄弟姉妹が主を愛し信じることができるように、役に立つことをひとつ残らず与え続けました。さらに彼は、聖なる者たちを支えるためにエルサレムへ行こうとしています。彼のこれらの行動は、自らを救ってくださった主に仕えるためになされるものです。そのために、自らの命を用いようとしているのです。

 

 結局のところ、わたしたちの命に価値が見出されるのは、何を得たかではなく、何を与えたか、そして何のために生きたかという点です。わたしたちは、主イエスキリストの十字架により、救いの恵みをいただきました。なぜ神は、わたしたちを救ってくださったのでしょうか。それはわたしたちが主のために生きるためです。そしてわたしたちが、人々のために、特に兄弟姉妹のために自らを与えて生きるためです。与えるといっても、ここで与えるのは物ではありません。兄弟姉妹が悔い改め、キリストへの信仰が強められるために必要な支えと励ましを与えるのです。ここにわたしたちの命の用い方があるのです。自らが得るために生きるのではなく、兄弟姉妹に与えるために、そして何よりも主なる神のために命を用いる。この生き方をとおして、わたしたちの命の価値はこの上なく輝くのです。今日の箇所でパウロは、神のために命を軽んじることを教えているのではありません。本当に価値あることのために命を用いよと、招いているのです。これこそ、今、わたしたちが招かれている生き方でありましょう。単なる自己犠牲の生き方ではありません。本当に価値あるもののために、命を用いる生き方です。そのような生き方を、共になしていこうではありませんか。