聖書箇所:使徒言行録20章1~16節
騒ぐな。まだ生きている。
第三回目の宣教旅行は、第二回宣教旅行ですでに訪れた町々を巡るものでした。ですから、宣教して回心者を得るよりも、すでに信仰に入った兄弟姉妹を訪問することにパウロの旅の目的の中心があります。1節と2節で「励まし」という言葉が繰り返されています。ここからも、第三回の宣教旅行におけるパウロの働きは、宣教よりも兄弟姉妹を励ますことに中心を置いていたことを見ることができます。
2節でパウロが到着したギリシアは、アカイア州の別名です。パウロは、そのなかでも州都であるコリントの町に滞在しました。そこに三か月滞在したのは、冬を越すためです。冬の期間は船が運休になりますので、パウロはそこで船の再開を待ちました。そして春になり三月ごろに船が再開しますと、パウロはシリア州(すなわちエルサレム)へと船出しようとします。しかしユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにしました。パウロに同行していた人々は先にトロアスに向かいまして、後からパウロが到着します。ここに七日間滞在した際に、7~12節の出来事が起こりました。このお話はあとから触れますので、先に13節以降にあるトロアスからミレトスまでの旅路を先に確認しておきましょう。トロアスからは、すぐ南のアソスを経由し、ミレトスまで船での移動でした。この途中にエフェソがあるのですが、パウロはあえてその町に寄りませんでした。先を急いでいたためです。具体的には、五旬祭すなわちペンテコステまでにエルサレムへ帰っていたかったからです。コリントを出たのが3月、ペンテコステは5月ですから、それほど時間はありません。ここでエフェソに寄りますと、19章であったような騒動がまた起こるかもしれません。ですからあえてこの町を通過してミレトスへ行ったのです。
さて、このような旅路を記した箇所の真ん中に、トロアスにおけるエウティコのお話が挿入されています(5~12節)。このお話から、この旅においてパウロがなしていた働きの中身を見ることができます。7節には、このお話が週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていたときに起こったと記されています。週の初めの日は日曜日で、パンを裂くのは聖餐式です。ですからこれは礼拝において起こった出来事です。パウロの励ましの働きは、日曜日の礼拝の交わりに中心があります。そこでパウロは、長々と話をします。パウロは明日に出発を控えています。おそらくこれが、今生の別れになると悟っていたでしょう。それゆえに人々の側も、できるかぎりパウロの話を聞いておきたいと願っていたのでしょう。しかしいくら話を聞きたいと思っていても、眠気に勝つのは容易ではありません。このことは、皆さんも実体験として経験されているのでしょう。エウティコも、そうでした。彼は窓に腰かけていましたが、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまいました。礼拝の会場は三階の部屋で、エウティコはそこから落ちてしまったのです。起こして見ると、彼はもう死んでいました。礼拝に出席したばかりに、彼は命を落としてしまったのです。
するとパウロは降りていき、彼の上にかがみこみ、抱きかかえて言いました。「騒ぐな。まだ生きている」。彼の上にかがみこみ、抱きかかえる動作は、旧約聖書で預言者が死者を生き返らせたときの動作に通じます(列王上27:21)。パウロは「まだ生きている」と言っていますが、「まだ」というのは原文にはありません。騒ぐな、彼の中に命がある。これが直訳した意味です。礼拝中に死んだ彼の中に命がある。パウロはそう言って、この青年を生き返らせました。その後、ふたたび上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで話し続けました。礼拝が続いたのです。このことから、二つのことが言えます。一つは、エウティコが手当ての必要がないほど完全に生き返ったということです。もう一つは、エウティコの死と生き返りが礼拝の中で起こったということです。エウティコは礼拝の中で死に、そして礼拝の中で新しい命が与えられたのです。この体験をした青年を連れ帰ることによって、人々は大いに慰められました(12節)。この「慰められた」という言葉は、1節や2節にある「励まし」と同じ言葉です。ですからまさにこの7~12節こそ、パウロが各地を巡ってなしていた励ましの働きを示すものです。つまりパウロの励ましの働きの中心は、共に礼拝に与り、そこで御言葉を語ることにあります。それによって、それまでの生き方に死に、新たな命に生かされる人々が起こされていきました。そのことによって、周りの人々もまた、慰められ励まされていったのです。
ここで、改めて覚えたいのです。教会の活動、そして私たちの信仰生活の中心は、今わたしたちが与っている礼拝にあるのです。礼拝に共に与ることを抜きにして、誰かを気遣い、兄弟姉妹に親切にしても、それは御心にかなう励ましにはなっていかないのです。礼拝の交わりを抜きにしては、会堂建築も、教会設立も、伝道も、奉仕も祝福されていかないのです。洗礼、あるいは信仰告白の際の誓約事項の中に、「最善をつくして教会の礼拝を守ること」があります。このことを、わたしたちは神の御前に誓っているのです。このことを、今日改めて思い起こしたいのです。なぜこの誓約が大切なのでしょうか。礼拝においてこそ、真の慰めと励ましが実現するからです。主イエスキリストの死と復活の御業は、この礼拝においてこそ起こるからです。礼拝において与えられる主イエスの死と復活の御業にこそ、わたしたちを本当の意味で生かす命があるのです。今日もこの命をいただいて、わたしたち一人一人が新たに生き返らせられて、新たな一週間を歩みだしてまいりましょう。