聖書箇所:使徒言行録19章21~40節
自負心がもたらす騒動と混乱
パウロはエフェソの町に三年ほど滞在ました。そしていよいよこの町を出発することにします。彼はこれから行く予定の土地にテモテもエラストを先に行かせ、彼自身はもう少しエフェソの町に滞在しました。その際、この道のことでただならぬ騒動が起こりました。その発端は、銀細工師のデメトリオという人でした。彼はアルテミス神殿の模型を銀で造り、自分だけでなく仲間の職人たちにもかなり利益を得させていました。そんな彼が職人たち仲間を集め、パウロの言葉を取り上げて問題視します(25~27節)。 これを聞いた人々はひどく腹を立て、叫びだしました(28節)。そして町中が混乱してしまいました。彼らはパウロの同行者であったガイオとアリスタルコを捕らえて、野外劇場になだれ込みました。エフェソにあった野外劇場は大変大きなもので、収容人数2万4000人です。そこで市民会議を開いて、二人の裁判をしようとしたわけです。
パウロは群衆の中に入って行こうとしますが、弟子たちが彼を止めます。弟子たちだけではなく、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちもまた、使いをやってパウロを止めました。パウロ自身は、自分の命などどうでもよいと思ったでしょう。けれども、いたずらに自らの身を危険にさらす行為に対して、聖書は慎重です。その間にも集会は混乱を極めます。そのなかで、アレクサンドロという男が群衆に向かって弁明しようとしました。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は、二時間ほどの間叫び続けました。この町にはもともとユダヤ教やユダヤ人に対する反感があったようです。それが、今回のことをきっかけとして噴出したのです。この状況のなかで町の書記官が登場します。この人は、一方的に弁明しようとしたアレクサンドロとは違い、まずは群衆の気持ちに寄り添います(35~36節)。そのうえで、連れてこられたパウロの同行者たちのことについて言及します。彼らは神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒瀆したのでもない。それでも訴え出たいならば、法廷もある。地方総督もいる。それ以外の要求は、正式な会議で解決してもらう仕組みもある。幾重にも訴えることのできる場が用意されているのに、それらを無視してこの集会を開くと暴動の罪に問われる恐れがある。こうして書記官は人々を説得し、この集会を解散させました。
ここまでエフェソの町に起った騒動が収まるまでのお話を見てまいりました。ここでもう一度、この騒動と混乱の発端を振り返りましょう。それはデメトリオが問題視した「手で造ったものなどは神ではない」とのパウロの言葉です。確かにこれは聖書の教えに基づくものです。しかしパウロが異教徒の人々に対して、「手で造ったものなどは神ではない」と批判的に主張したとは考えにくいのです。それには理由があります。一つは、デメトリオがパウロの発言として語っている「神ではない」という言葉が複数形「神々ではない」であることです。唯一の神を信じるパウロが、自らの主張として「神々ではない」と言うのは不自然です。もう一つの理由は、パウロのアテネでの宣教の様子です(17:16以下)。そこで彼は、ギリシアの宗教を信じる異教徒たちに宣教しています。その際パウロは、相手の信じている神を、神ではないと頭ごなしに否定したりしません。相手の信仰を尊重したうえで、真の神を示そうと努力したのです。そのパウロが、エフェソで態度を一変させ、異教徒たちを一方的に批判したとは考えられません。つまりデメトリオのパウロに対する批判は、不正確な理解に基づく勘違いです。その原因は、彼の自負心にあると思われます。「自分たちこそがアルテミス様を支えている」という強い自負心があったからこそ、アルテミスを否定したように思われたパウロに対して、相手をよく理解しないまま一方的に批判したのです。ではパウロは、異教徒の人々に対してどうに接していたのでしょうか。31節では、アジア州の祭儀をつかさどる高官たちがパウロの友人として描かれています。彼らは明らかに異教徒です。パウロが三年間エフェソに滞在する中で、そのような人々と友人関係を結んでいました。また後から登場した書記官の37節の発言も、パウロや同行者たちがアルテミスの宗教に対して無礼な態度を取っていないことの証しです。それによって結果的に、高官たちや書記官が主の働きを擁護する側に回っているのです。
ときに我々は、自らが信じる神に対する盲目的な自負心を持ってしまいます。多くの祝福を得るなかで、自分が神の栄光を守らなければならないという、過剰な自負心を持つことは誰にでも起こり得えます。それが、「あなたの信じている神こそおかしい」というような異なる宗教を信仰する人々への一方的な攻撃や否定につながります。同じキリスト教を信じる相手であっても、「あなたの聖書理解は間違っている」という礼を失した批判は起こり得ます。しかしわたしが誰かに対して批判的に擁護しなければ、キリストの救いは倒れてしまうのでしょうか。そんなことはあり得ません。神への過剰な自負心は、むしろキリストの救いへの信頼感の欠如です。
わたしたちの使命は、主イエスの十字架による救いを世の人々に示していくことです。だからこそまずわたしたち自身が、決して揺らぐことのないキリストの救いの御業への絶対的な信頼を持ちたいのです。それを土台としてこそ、他の宗教の方々、考え方の違う人々に礼を尽くしてあらゆる人々に仕える者となることができるのです。もし我々が世の誰よりも相手に礼を尽くす者であるならば、今日の高官たちや書記官のように、神の働きに協力する人々が自然と起こされていくのです。こうして神の愛は世に広がり、選びの民は起こされていくのです。