2021年6月13日礼拝説教「神の御心を求めて」

 

聖書箇所:使徒言行録18章18~23節

神の御心を求めて

 

 使徒言行録には、三回にわたるパウロの宣教旅行が記録されています。本日の箇所で第二回目の宣教旅行が終わり、第三回目の宣教旅行が始まります。短い箇所ではありますが、この間の移動距離は相当なものです。そのなかで様々な出来事が起こっています。具体的には、コリントからシリア州へと船出する場面(18節)、エフェソでの出来事(19~21節)、エルサレム経由でアンティオキアに戻り新たな旅へと出発する場面(22~23節)の三つの場面が描かれています。

 まず最初の18節です。場面はコリントから始まります。ガリオンの法廷から無事に解放されたパウロは、もうしばらくの間コリントの町に滞在しました。それは「この町で語り続けよ」との主の言葉に対するパウロの応答でありましょう。それと同時にパウロは、シリア行きの船が再開する三月を待っていました。船が再開しますと、兄弟たちに別れを告げてシリア州へと船出します。そこにプリスキラとアキラ夫婦が同行しました。船出にあたり、パウロはケンクレアイで髪を切りました。請願を立てていたためです。髪を切ると書かれていますのは髪を剃ることを指します。旧約聖書においては、民数記6章に見られます。おそらく聖書に基づく当時の慣習に従って、パウロはこのとき髪を剃ったと考えられます。請願の内容は書かれていませんので詳しくは分かりませんが、いずれにしてもパウロは神に従う一環として船出前に髪を剃ったのです。

 こうして船出したパウロですが、エフェソで一旦船を降りることになります。同行していたプリスキラとアキラはこのエフェソに定着し、24節以降で大切な働きを担うことになります。おそらくこの二人を送ることが、途中のエフェソでパウロが船を降りた主目的だったと思われます。パウロは二人と別れた後、会堂に入ってユダヤ人たちと論じ合って宣教します。彼は人々からもうしばらく滞在するように願われます。「人々」とは、エフェソにいたキリスト者の人々でありましょう。しかしパウロは、兄弟たちからの願いを断ります。パウロは先を急いでいたからです。パウロが先を急いでいたのは、過越祭をエルサレムで守りたいと願っていたからです。聖書の規定に従ってエルサレムで過越祭を守ることが、このときのパウロにとっての御心だったわけです。神の御心に従って先を急ぐわけですから、神の御心ならばまた戻って来くることになるでしょう。こうして彼は人々に別れを告げ、エフェソから船出しました。

 船がつきましたのはカイサリアという町です。そこからまずは、教会に挨拶をするためにエルサレムに上って行きました。第二回の宣教旅行で与えられた主の恵みを、教会全体に共有したのです。同時にそこで過越祭も守ったことでしょう。その後パウロは北に向かい、アンティオキアへと帰りました。しばらくそこに留まって一息ついた後、また旅に出てガラテヤ・フリギア地方を巡り、弟子たちを力づけました。そこはかつてパウロが宣教した地方であり、迫害が激しかった地域でもあります。今もそこで信仰生活を送る弟子たちを、パウロは励ましに行ったのです。それと同時に、ガラテヤとフリギアはエフェソへと向かう途中にあります。彼はエフェソに向かっていたのです。彼がエフェソに向かったのは、「神の御心ならば、また戻って来ます」という言葉の実現のためでありましょう。

 「神の御心ならば」。わたしたちもまた、この言葉を使うことがあるでしょう。この言葉には、「神が世界のすべてを治めておられる」という信仰が込められています。一方で、自分の手を煩わしたくないという思いを、この言葉に込めてしまう面があるように思うのです。改革派信仰においては、神の主権でありますとか、神の一方的な恵みということを強調します。それが、神にすべてお任せすれば自分は何もしなくてよいという誤解を生むことがあるのです。あるいは神の主権ということが、逆の面から誤解を生むこともあります。このコロナ禍において、感染対策を無視して礼拝を強行する人々がキリスト教にも他の宗教にもおります。彼らもまた「これが神の御心だ」と言うのです。この姿もまた、人の側で考えたり労したりすることを放棄し、神にすべてを押し付けてしまう誤解でありましょう。

 では聖書に描かれたパウロの姿はどうでしょうか。彼もまた、わたしたちと同じように神の主権、神の一方的な恵みを信じていたことは明らかです。しかし同時に彼は、聖書に従うことと弟子たちに配慮することに熱心でした。そのなかで「神の御心ならば、また戻って来ます」と言った言葉を実現するために、エフェソへと向かいました。パウロは決して神にお任せではなく自ら行動を起こすのです。新約学者のNTライトはこのように書いています。

「神は、神を愛する者たちとともに、彼らを通して究極的な善に向かってすべてのことを働かせるのです。」(「神とパンデミック」p.69)

 

神がこのようなお方だからこそ、わたしたちもまた聖書をとおして神の御心を求め、その実現のために行動する者でありたいのです。わたしたちが聖書に聞き、聖書に示されたキリストに従って兄弟姉妹に配慮することをとおして「神の御心」が実現することを、神は望んでおられるのです。神を愛するわたしたちが、聖書に従うことをとおして、兄弟姉妹に配慮することをとおして、その他わたしたちのあらゆる行動をとおして、神は御心を行ってくださいます。神は、このような欠けの多いわたしたちと共に働くことをお望みくださっているのです。神と共に、神の同僚として共に働きをなす。この驚くべき、そして素晴らしい働きを担う者として、わたしたちは世に遣わされていくのです。