聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節
人の価値はどこにあるのか
コロナ禍による社会の変化のなかで、人の価値が問われています。人の価値をどこに置くかが、わたしたちの行動を決めているからです。わたしたちが一生懸命感染対策をするのは、命に人の価値を置いているためです。しかしそれだけで、すべてが満たされるわけではありません。それゆえに様々な意見があり、時にそれらがぶつかり合っています。ここまでに意見が割れるのは、人の価値をどこに置いているかが人それぞれだからです。しかし見落としてはならない面があるのです。それを聖書から教えられたいのです。
今日の物語はたとえ話です。ぶどう園は天国を、ぶどう園の主人は神様を、それぞれ指しています。ぶどう園の主人の行動は、語弊を恐れずに言えば常識外れです。まず彼は労働者を雇うことに対して、異常に熱心です。彼はぶどう園で働く人を雇うために夜明け(朝6時ごろ)に出かけました。そして一日一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送りました。一デナリオンは、その日一日を安心して暮らせる額です。この主人は9時にも出かけ、何もしないで広場に立っている人々を見つけます。主人はふさわしい賃金を支払うことを約束し、彼らもぶどう園に送りました。12時と3時にも同じことをします。夕方5時に出かけてみると、そこにはまだ人々がおりました。主人は彼らをも、ぶどう園に送りました。さてその日の仕事が終わり、主人が賃金を払う時間となりました。この賃金の払い方に、主人の常識外れな行動の中心があります。ぶどう園に最後に来たものから始めて最後に来た者へ、皆に一デナリオンずつ支払いました。そのため朝から働いていた労働者は不満を漏らします。主人はこの労働者に対して、約束を破ったり不正を働いたりしたわけではありません。しかし彼らは不満でした。この気持ちは、わたしたちもよく理解できるのでしょう。しかしぶどう園の主人の気持ちは違っていました。何ができるか。何を成し遂げたか。そういったところに、この主人は価値を置いていないのです。ここにわたしたちが見るべき点があります。およそ社会のほとんどは、何ができるか、何を成し遂げたかという物差しで人の価値を図るものです。わたしたちはそのような常識の中に生きています。しかしそれは本当に生きやすい社会なのでしょうか。
この物語のなかに「何もしないで」という言葉が3節と6節で用いられています。一日中働いた労働者たちの不満の原因も、この言葉に現れています。自分たちはここで必死に働いた。そのときあいつらは、何もしていなかった。同じ扱いは不公平だ、と。何もしていなかったことに対して、成果をあげた人々からの厳しい目線が向けられています。今の社会も同じではないでしょうか。何もしていないと他者から見られないように、人よりも結果を出そうと皆が必死になっています。そして、自分よりも何もしていない人々に対して冷たい視線を向け、彼らが優遇されると文句を言いたくなります。これがまさに、主人に不平を漏らした労働者の姿です。
ところで何もせず広場に立っていた人々は、主人にこう答えています。「だれも雇ってくれないのです」。彼らは決してサボっていたわけではありません。追い詰められていました。賃金が得られないならば、その日食べるものがないからです。それゆえ彼らは一日中働き口を探しました。しかしお前は要らない、お前など価値はないと言われ続けたのです。この痛みは、どれほどのものでしょうか。ぶどう園の主人が広場で見たのは、そのような人々です。彼らのために、主人は何度も出かけて声をかけ続けたのです。今からでもわたしのぶどう園に行きなさい、と。そしてこの主人は、この日一日を安心して暮らせるだけの賃金を、すべての人々に支払いました。これが聖書の教える神様の姿です。
わたしたちの周りにも、一見して何もしていないように見える人々がいます。しかし彼らにも理由があるのです。良い主人に出会えず、努力できる環境すら与えられず苦しんでいる。それなのに「お前は要らない、お前には価値がない」と言われ続けている。そのような人々を、ぶどう園の主人である神様だけは価値ある者として扱われるのです。能力に恵まれ、成果をあげることのできる環境に恵まれた人々と同じ扱い、同じ報酬を与えてくださるのです。ぶどう園の主人にとって大切なことは、ぶどう園にいることです。何時に雇われたかに関わらず、ぶどう園に来た労働者はその日一日をこの主人に委ねた人々です。主人は、そんなふうに自分を頼ってくれたことが嬉しいのです。これこそ、主人が労働者たちに見出している価値です。それにふさわしく、主人はぶどう園にいる皆に、その日一日を安心して過ごすことのできる賃金を支払ったのです。
このたとえ話における労働者の一日とは、皆さんお一人お一人の人生全体を指しています。皆さんの人生において大切なこともまた、ぶどう園にいることです。ぶどう園とは、最初に申しましたとおり天国のことです。それはお空の上にあるのではなく、神様に従う人々が集まる場所、すなわち教会です。神様は、このお話をとおしてあなたをも招いておられます。あなたたちもぶどう園に行きなさい。あなたたちも教会に行きなさい、と。そこに行けば、人生を安心して生きるのに十分な賃金をいただくことができます。その賃金こそ、教会の屋根に掲げられている主イエスキリストの十字架です。この十字架によって、人生に確かな価値が見出されます。だからぜひあなたも、神様の招きに応えてぶどう園である教会に出かけていただきたいのです。お近くのキリスト教会の門を、勇気を持って叩いていただきたい。そこに神様のぶどう園は広がっています。そこに行くことによって、わたしたちがこの世界を生きるうえでの本当の価値が、見出されてまいります。