2021年5月23日ペンテコステ記念礼拝説教「主より受けた祝福を喜び祝う」

 

聖書箇所:申命記16章9~12節

主より受けた祝福を喜び祝う

 

 ペンテコステのことを日本語では聖霊降臨祭と言います。けれどもこの言葉そのものに、聖霊が降るという意味はありません。ペンテコステは50日を意味する言葉で、これに対応するのは七週祭です。この七週祭のときに弟子たちに聖霊が降りました。このことに重要な意味があります。聖霊の降りは、この七週祭のときに起こるべくして起こったのです。ですから今日は、この七週祭がいったいどのような意味を持つのかについて学びたいのです。

 このような理由から、本日は申命記にあります七週祭の規定の御言葉を選びました。この七週祭は、収穫感謝祭です。穀物の借り入れが始まって七週を数えて行う祭りです。このときになれば、ある程度の収穫が与えられていることでしょう。それを主の御前で祝う。これが七週祭です。七週を数え始める時期は、穀物に鎌を入れる時と定められています。それは過越祭の時期でもあります。過越祭は、神が民をエジプトから救い出してくださったことを覚える祭りです。その後、荒れ野での旅が始まります。この旅が始まって七週後に、シナイ山で十戒が与えられました。ここに七週の意味があります。七週祭は単なる収穫感謝祭ではありません。神から十戒を中心とする律法が与えられたことを覚え、神の御意志に仕える思いを新たにすること。それが七週祭に込められたもう一つの意味です。それゆえ12節で、掟を守ることに言及されているわけです。

 さて10節からは、この七週祭で行われるべきことが規定されています。まず主への献げ物が命じられています。「あなたがささげうるだけの」というのは意訳でして、「強制されてではなく」あるいは「自由な意志で」、「自発的に」という意味の言葉です。英語では、ボランタリーと訳される言葉です。強制されてではなく、自由意志による献げ物をすることが規定されています。主からいただいた祝福に応じて、自発的に神に献げ物をするのです。自発的な献げ物をとおして、自発的に自由な意志で自らが神の律法に仕えていくのです。これが七週祭で命じられている献げ物の既定の中心にあることです。自発的に神に仕えることが強調されているのは、神の祝福が神の自由意志によって与えらえたからです(ホセア書14;5、「喜んで」と訳されているのが、自由な意志を指す言葉に対応)。神は、強制されてではなく自由な意志によって、民との関係を結ぶことを望んでおられます。そもそも愛は自由意志に基づきます。相手を縛り付けるのは愛ではないからです。そして神の側がまず、自由なご意志の中で民に豊かな祝福を与えてくださいました。そして豊かな祝福をいただいた民が、七週祭において自由な意志で献げ物をお返しするのです。神から与えられた祝福とは、直接には穀物の収穫のことです。けれどもそれが象徴しているのは、過越しによって救われて以降に与えられてきた祝福です。救いの恵み、そして救われた後いただいてきた祝福に感謝し、民は感謝の献げ物をするのです。そのことをとおして、律法に従って生きる決意を新たにし、自らを神のためにささげるのです。それが七週祭、ペンテコステです。これは、わたしたちにもそのまま当てはまるのではないでしょうか。主イエスの十字架と復活は、過越祭のときに起こりました。わたしたちもまた、この過越しにおいて救われました。その後の七週間は、救われた後の信仰者としての道のりと重なります。神の祝福は決して救われた瞬間に終わるのではありません。その後の歩みにおいても、祝福は与えられるのです。これこそわたしたちにとっての神の祝福、恵みの収穫なのです。これらすべての実り、祝福を神に感謝しながら、神の御心にわたしたちは仕えていくのです。

 ここで大切なことは、神から与えられた祝福を、どこで、誰と分かち合うかです。それが11節です。まずは場所は、「あなたの神、主の御前」です。具体的には、主がその名を置くために選ばれる場所であり、主の神殿です。わたしたちにとっては、主の体なる教会です。ですから教会の礼拝において神の御前に出てペンテコステを祝っている皆さんは、まさにこの規定に従っているのです。では、ペンテコステの喜びを誰と分かち合うようにと命じられているでしょうか。11節の後半に、列挙されています。まず挙げられているのは、家にいる息子、娘、男女の奴隷です。続いて挙げられているレビ人は、神から祝福をいただくためのパイプ役を担う人々です。そして最後に挙げられているのが、寄留者、孤児、寡婦です。弱い立場の人々であり、同時に神が重んじられる人々です(申命10:17以下)。神が重んじられる弱い立場の人々を重んじ、彼らと共に神からいただいた祝福を分かち合うこと。これこそ、律法に従うことの中心なのです。これはすなわちディアコニアです。神からいただいた祝福を、それに与ることができない人々と分かち合うことです。しかも自発的に、自由な意志でそれを行うのです。このディアコニアの業が、この七週祭、ペンテコステにおいて、この教会から始まっていくのです。それができるように、このペンテコステにおいて弟子たちに聖霊が与えられたのです。

 

 世の中には、とても喜ぶような状況にない人々が多くいます。わたしたちの教会の兄弟姉妹の中にも、そのような方がいるのではないでしょうか。そういった方々と救いの恵みを分かち合い、神から与えられた祝福を共に喜ぶこと。これこそ聖霊を与えられたペンテコステの日に、教会に与えられた使命です。そしてキリストの体なる教会に結ばれたわたしたちの使命です。与えられた祝福に感謝しつつ、それを分かち合うディアコニアの働きへと、自発的に各々の力に応じて身をささげていくこと。これこそ、このペンテコステの日に、神がわたしたちに望んでおられることです。