2021年5月16日礼拝説教「神の民は大勢いる」

 

聖書箇所:使徒言行録18章1~11節

神の民は大勢いる

 

 今日の箇所で主なる神は、パウロに対して力強く励ましの言葉を語られています。この言葉は、大きな困難の中にあるわたしたちにも与えられています。わたしたちが知るべきことは、どのような状況においてこの励ましの言葉が神から与えられるのか、ということです。そのことを、今日の御言葉から学びたいのです。

 前回までアテネにいましたパウロは、コリントへと移動しました。コリントは、アカイア州の州都です。東西で物のやり取りをする際は、このコリントにおいて船の載せ替えをする必要がありました。それゆえ商業都市として発展したのがコリントでした。パウロはこの町で、アキラとプリスキラという夫婦に出会います。彼らはローマからの退去を命じられ、最近コリントへやってきました。この夫婦がパウロと出会ったとき、すでに彼らはキリスト者でした。彼らの回心について書かれていないからです。ですからこの夫婦とパウロとの共通点は、驚くほど多いのです。最近コリントに来たばかりであること、共にユダヤ人であること、共にキリスト者であること、さらにはテント造りという職業まで同じであること。これだけ共通点が多ければ、パウロはこの夫婦と意気投合したことは想像に難くありません。こうしてパウロは彼らの家に住み込んで働きながら、安息日には会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていました。シラスとテモテが合流したあと、彼は御言葉を語ることに専念します。彼らがフィリピ教会からの援助を携えてきたためです(フィリピ4:15参照)。この援助に支えられて、彼は安息日だけではなく平日も会堂に行き、ユダヤ人に対して救い主メシアはイエスであると力強く証ししました。しかし彼らは反抗し、パウロを口汚くののしりました。そこでパウロは、服を振りながら自分は異邦人の方に行くことを宣言いたします(8節)。

 会堂を去ってパウロが行ったところは、会堂の隣、神をあがめるティティオ・ユストという人の家でした。「神をあがめる」とは、聖書を受け入れている異邦人を指します。すなわちユダヤ教への改宗者です。パウロはユダヤ教への改宗した異邦人の家、しかも会堂の隣にある家に移ったわけです。そこには、会堂に出入りしている人々も顔を出していたようです。その結果、会堂長のクリスポが一家を挙げて主を信じるようになりました。それだけでなくコリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けました。このようにして、コリント教会がこの地に建てられていくこととなりました。こうしてパウロは、宣教の大きな実りを得ることができました。このようななかである夜、主が幻の中でパウロに言われた言葉が9~10節です。「恐れるな」という語りかけは、旧約聖書のモーセやイザヤ、エレミヤにもなされています。旧約聖書の神が、このときパウロに語りかけられました。この言葉に励まされ、パウロは一年六か月という長い期間にわたって滞在し、人々に神の言葉を教えました。

 ここで注目したいのは、主がパウロに語りかけられたタイミングです。コリントの町に入ってすぐにこの言葉が与えられたのではありません。ひととおり宣教し、様々なことが起こったあと、この励ましに満ちた言葉を主は語られました。それまでにパウロは、アキラ・プリスキラ夫婦との驚くべき出会いを経験し、これまた驚くべきことにフィリピからの支援が届きました。その後、ユダヤ人の反抗に遭いましたが、それに伴ってティティオ・ユストの家に行きますと、そこでも驚くべき宣教の実りが与えられました。この経験のなかで、神が共にいてくださるということをすでにパウロは感じていたと思うのです。そのような状況のなかで、主が語りかけられたのです。

 神の言葉は、ある面でいまの目の前の状況を超えたものです。神の民は多い、あなたを襲って危害を加える者はいないと言われていますが、パウロの置かれた状況は決して楽観できるものではありません。だからこそ、目の前の状況を超える神の言葉はパウロにとって励ましとなったでありましょう。その一方で、神の言葉はパウロの置かれた状況を無視したような、現実離れした内容でもないのです。驚くべき助け手との出会いやフィリピ教会からの支援、宣教の実りを通してすでに与えられている恵みの事実から、神の言葉は確かなのだという確信が与えられていくのです。

 

 これはわたしたち自身の歩みにおいても当てはまるでしょう。あの時、この私にも驚くべき神の守りがあった。そのような経験を、誰もがお持ちと思います。その多くは、共にキリストを信じる兄弟姉妹との関わりのなかで与えられたのではないでしょうか。兄弟姉妹との出会いや、兄弟姉妹からの支援を経てパウロに神の励ましの言葉が語られたように、わたしたちの歩みにおいても兄弟姉妹との交わりや支え合いのなかで神の守りが確かにあり、神の言葉は確かであるという確信が与えられていくのです。これは、自分が神の言葉を確信することだけではありません。わたしが兄弟姉妹の誰かを支えたときには、それが兄弟姉妹にとっての神の励ましともなり得るのです。何よりも聖書に記されたわたしたちを救う恵みの御言葉は、キリストが十字架という形でわたしたちに関わってくださったことによって、確かなものとなったのです。神の励ましの言葉は決して絵空事ではありません。兄弟姉妹が関わり合い、支えあい、愛し合うことを通して、神の励ましの言葉は確かなものとなるのです。今は困難なときです。だからこそ、主にあって互いに仕えあい、支え合いたいのです。そこから、主の励ましの言葉は、わたしたちの内に確かなものとなっていくのです。この言葉に力を与えられて、わたしたちは世で御言葉を宣べ伝えることへと励むのです。