2021年5月2日礼拝説教「福音の新しさ」

 

聖書箇所:使徒言行録17章16~21節

福音の新しさ

 

 べレアから避難したパウロが、アテネの町でシラスとテモテを待っていたときの出来事が、今日から始まっていきます。アテネは、現在のギリシアの首都です。古くから存在する歴史の長い町です。この当時は、ローマ帝国のアカイア州に属していました。ただしアカイア州の州都は、アテネではなく商業で栄えたコリントでした。それに対してアテネは、古くから芸術、学問、哲学の中心地です。経済の面でコリントが州都だが、知識に関してはアテネだ。そんなアイデンティティーを持っていた町です。

 そのアテネに、パウロがやってきました。町を歩きますと、町の至るところに偶像があるのを見て憤慨します。必ずしも神々の像だけでなく、偉人たちの像も多かったようです。学問で功績をなしたし人、哲学の偉人などの像があったのかもしれません。その像を見ながら、自分もこんな立派な人物になりたいと思っていた人々が多かったでありましょう。一方パウロは、十戒を受け入れる立場です。十戒の第二戒では、神に限らずあらゆるものの像を造ることが禁じられています(出エジプト20:4)。偉人の像であっても、それが崇拝の対象になりうるからです。そこでパウロは、会堂と広場という二つの場所で議論を持ちかけました。会堂ではユダヤ人と神をあがめる人々に対して論争しました。これまでもパウロが様々な町で行ってきたのと同様です。しかしこのアテネでは、町の広場でたまたま居合わせた人々とも毎日論じ合いました。そのなかに、エピクロス派とストア派の幾人かの哲学者がいたことから、物語が展開していきます。

 エピクロス派とは、エピクロスという人から始まった哲学の学派の一つです。神はこの世界を遥かに超越する存在であり、この世界とは関わりを持たない、という考えを持っています。その結果、事実上無神論と同じような立場を取っていました。一方ストア派も哲学の学派の一つです。ストア派を始めたのはゼノンです。この世界のあらゆるところに神は宿るという立場です。この当時、哲学と宗教はそれほど区別されていませんでした。ですから哲学者にとって、パウロの話も興味の対象でした。パウロと討論した哲学者の反応が18節に記されています。主イエスについても、復活(体の復活)についても、アテネの哲学者にとっては触れたことのない新しい事柄でした。ですから、哲学者たちも戸惑ったでありましょう。18節の反応は軽蔑や批判的な意味が込められています。とは言いましても、彼らは新しいことに興味があるのです。ですからパウロをアレオパゴスを連れて行きました。

 アレオパゴスとは、いわば議論の場所です。公式な評議会や法廷の場でもありますし、非公式に議論したい人々が集まって議論する場でもありました。今回パウロが連れて来られましたのは、おそらく非公式の議論の場であったと思われます。そこにパウロを連れてきて、新しい教えを話すよう促します(19~20節)。ここで「知らせてもらえないか」とは、もともと「我々は知ることができるか」という意味です。一つの知識の蓄えとして、あなたの話を知りたい。これが哲学者たちのパウロへの思いでした。彼らは決して主イエスを受け入れようとしたのではありません。彼らが欲したのは、新しい知識なのです(21節)。

 アテネは学問都市です。この町では、知識の量がその人のステータスです。新しいことを聞く。そして知識をため込んでそれを誰かに話す。すると人々から評価され、自らの価値を高めることができます。こうしていつかは自分も、あの像の偉人のようになりたい。それが彼らの願いでありました。彼らにとってパウロの語る福音は、自らを高めるための道具でしかありませんでした。一方で、パウロの伝えていた福音とは何だったでしょうか。今日の箇所に関連づけて語るならば、「人は自らの知識ではなく、神の知恵である主イエスキリストによって救われる」ということでありましょう。わたしたちは新しい知恵や力を得て、それをため込むことによって救われるのではない。そこに福音の新しさがあるのです。一コリント8:1~2で、パウロは「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と書いています。「知らねばならぬこと」とは、神の知恵を前にしたときに、自分は何にも知らないという事実です。自分が神の御前に無知であることを悟り、神の知恵である十字架のキリストを受け入れる。こうして、わたしたちは救われるのです。これこそ、キリストの十字架に示されている神の知恵、わたしたちが得るべき真の知識なのです。

 

 わたしたち改革派教会は聖書や教理を学ぶことを重視しています。それは知識をため込んで、他者を批判し、自らを高めるためではありません。神がいかに偉大であるか、それに比べて自分がいかに小さく知恵のない者であるか。これを知るために、わたしたちは聖書を学ぶことが必要なのです。聖書に示された神の知恵に触れるとき、わたしたちはキリストの御前にへりくだらざるを得ません。聖書に示された神の知恵を学べば学ぶほど、その知識をひけらかして自慢することなどなどできなくなっていくのです。これこそわたしたちの知るべき新しい知識、十字架の知恵なのです。神の知恵である十字架によって救われたわたしたちが、高ぶることなく神の御前にへりくだるために、ぜひとも神に示されたこの新しい知識を貪欲に求め続ける者でありたいのです。もし聖書に真摯に向き合うことをしないなら、知識をため込んだ者が救われるという古い知恵へとわたしたちは戻っていくことになります。そこにキリストの愛は実現しません。御言葉を学び、キリストに示された新しい知恵を得ることをとおして、へりくだる生き方、へりくだる教会へとならせていただきたいのです。