2021年4月25日礼拝説教「望みのない笑いと希望の約束」

 

聖書箇所:創世記18章1~15節

望みのない笑いと希望の約束

 

 今日のお話の中心テーマは、全能の神です。今日の箇所では「主に不可能なことがあろうか」と言われています。当然その答えは、「いいえ、主に不可能なことなどありません」となるでしょう。神は全能であり、何でもお出来になる。これがこの物語の大前提となっています。一方でこの事実は、わたしたちが厳しい状況に置かれるとき、悩みの種ともなります。なぜ神は、わたしをこのような状況に置かれるのか。それがわたしたちの現実的な悩みでありましょう。そして口では全能の神を信じているといいながら、どこかで神が全能であることをあきらめてはいないでしょうか。これがアブラハムとサラの置かれた状況でありました。彼らは確かに神の契約の内に入れられました。この契約は、この夫婦に子供が与えられることが前提となっています。しかし二人はどんどん年をとり、状況は悪くなるばかりです。常識的に考えて、神の約束の実現はもう不可能です。そのようななかで、主が彼らに現れてくださいました。

 主は、三人の人としてアブアハムの前に現れました。アブラハムは、この三人を見ると走って出迎え、必死になって彼らを引き留めました(3節)。最初に「お客様」と記されていますが、口語訳では「わが主よ」です。アブラハムは、彼らが主なる神であられることを悟っていたようです。神との契約の実現が不可能としか思えず、望みの見えない状況の中で、わたしのもとに留まって欲しいとアブラハムは必死になって神に求めました。三人の人たちは、それを受け入れます(5節)。アブラハムは急いで天幕に戻り、できる限りのもてなしをしました。アブラハムが神の御前に立たされていると考えれば、この行動はよく分かります。このようなアブラハムのもてなしを受けた後、彼らの一人が改めて神との契約の言葉をアブラハムに語りました(10節)。この言葉がこれまでの契約の言葉と違うのは、実現時期が示されていることです。神の約束の実現の時期が示されていなかったことが、アブラハムとサラの悩みが大きかった原因の一つでした。それがついに、来年の今頃、男の子が生まれていると明かされたのです。しかしこの言葉を聞かされたサラは、ひそかに笑いました(12節)。その理由は、11節を見れば明らかです。今の状況を考えれば、そんなことあるわけがないという、望みのない諦めの笑いです。サラは、神の力よりも目の前の状況や常識の方に重きを置いていました。それゆえに、望みを失っていたのです。それはおそらくサラだけではなく、アブラハムもそうだったでありましょう。彼らが100%不信仰だったわけではありません。必死に神を求め、お仕えしていました。しかしどこかで神よりも目の前の常識を上に置き、神に期待しきれなかったのです。それゆえに約束された望みをあきらめていたのです。この夫婦は、わたしたちの姿でもあるのではないでしょうか。わたしたちもまた神を信じていながら、どこか神を信頼しきれずにいるのです。神の御前に持つべき望みを、失っているのです。

 そのようなアブラハムとサラに、そしてわたしたちに神は言われます。「主に不可能なことがあろうか」と。ここから、神が全能の神であることの意味を教えられたいのです。それは決して、わたしたちが望み願う状況を神が整えてくださるということを意味しません。神が実現してくださるのは、わたしたちの望みではなく神の約束です。しかもその実現は、あらゆる状況が整えられて実現していくものではありません。常識的に考えてとても実現しそうにない状況のなかで、なおも神はその常識を超えて御自身の約束を実現してくださるのです。この意味で、神は全能であられるのです。

 どのような状況からでも、神は御自身の約束を必ず実現されます。実のところ、そこにおいて人間の側の態度は関係ありませせん。ではわたしたち人間の側が、神の約束の実現を信じるか否かはどうでもいいのでしょうか。決してそうではないのです。それはわたしたち人間の側が、神の約束に希望を持てるかどうかに関わるからです。神は約束の言葉を必ず実現してくださるのに、わたしたち人間の側が全能の神を信じることができず、希望を失ったままでいる。その状況を、神はそのままにはしておかれません。だからこそ、「主に不可能なことがあろうか」と、神はわたしたちに問いかけられ、御自身の約束の実現に期待するようわたしたちにお求めになるのです。この神のお求めに応えることができたのは、主イエスの母マリアでした(ルカ1章)。「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉によって、マリアは自分の常識や考えを超えて、神の言葉の実現を受け入れたのです。そのマリアから、聖書の約束に従って主イエスキリストはお生れになりました。

 

 神は全能なるお方です。神の約束を信じることができなかったサラにも、信じることができたマリアにも、神は御自身の約束された言葉をそのとおり実現してくださいました。その全能の神は、厳しい状況のなかで苦しみあえぐわたしたちを決して無視されるお方ではありません。わたしたちが神の約束の実現に希望を持つことができるよう、わたしたちのところにも現れてくださり、関りをもって配慮してくださるお方です。わたしたち自身は、神を信じていながらも、神が全能であることをどこかで疑ってしまう者です。しかしそのようなわたしたちが、自らの常識や考えを超えて、神の言葉に信頼するよう神は望まれています。神が全能であることに期待するように、神はわたしたちを招いておられます。この招きに、わたしたちも応えようではありませんか。わたしたちの置かれた状況は、聖書に記された神の約束の実現とは程遠いものかもしれません。だから神の約束を諦めるのではなく、程遠いからこそ全能の神に期待しようではありませんか。