2021年4月11日礼拝説教「聖書に従う人々と逆らう人々」

 

聖書箇所:使徒言行録17章1~9節

聖書に従う人々と逆らう人々

 

 今日はテサロニケという町でのお話です。このテサロニケは、マケドニア州の州都でありました。大都市から宣教するというパウロの宣教戦略が、ここでも貫かれています。前回のフィリピはローマ帝国の植民都市でしたが、このテサロニケはギリシア式の民主的な自治が認められていました。市民が集まって民会が組織され、そこで政治的な決定がなされていました。それとは別に、数名の町の当局者が任命されました。この人たちもまた、政治的な役割を担っていました。

 さて、テサロニケについたパウロたち一行は、ユダヤ人の会堂があるのを見つけ、いつものように入っていきました。そして三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合いました。これは必ずしも、三週間ということではありません。テサ一2:8やフィリ4:16から見て、パウロたちはもっと長い期間この町に滞在していたと考えるのが一般的です。テサロニケに着いて、三週間ですぐに回心者が与えられたのではありません。パウロはこの地で時間をかけ、地に足をつけて宣教したのです。その長い期間なかでも特に三回の安息日において、聖書を用いた議論がなされました。ここでは、その議論のなかでも主要な二点のみが3節に記されます。一点目は、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」。旧約聖書によれば、約束されているメシア、救い主は必ず苦しみを受ける。すなわち一度死に、その後死者の中から復活することになっている、ということです。この内容を踏まえて、二点目の主張がなされます。「このメシアはわたしが伝えているイエスである」。パウロは、どこまでも聖書に記された御言葉に基づいて議論しました。ところで3節の最後にある「説明し」ですが、これはもともと「開く」という意味の言葉です。この言葉は、ルカ24:45において心を開く意味で用いられています。ですから、今日の箇所ではパウロが聖書を説明し論証したというのは、単に聖書で相手を論破して、説き伏せたということではないでありましょう。聖書を開くことによって、相手の心をも開いていったのです。このような、聖書に基づく論証を通して、回心者が与えられていくことになりました(4節)。ユダヤ人たちからもある者が信じました。しかしそれ以上に大勢の、神をあがめるギリシア人やおもだった婦人たちが、パウロとシラスに従いました。彼らはユダヤ人の会堂を離れ、二人の開いていた集会へと移ってきました。こうしてこの町にテサロニケ教会が出来上がっていくことになります。

 さてこの状況を、ユダヤ人たちは妬みました。多くの人々が自分たちの会堂から去って、パウロとシラスの集会へ移ってしまったからです。そこで彼らは広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させました。パウロとシラスによってこの暴動が引き起こされたと、偽りの告発をしようとしました。二人を民衆の前(すなわち民会)に引き出すために、ヤソンの家を襲いました。しかし二人はそこにおらず、不在でした。そこでヤソンと数人の兄弟たちを、町の当局者のところへ連れていきました。民会のメンバーはヤソンのことを知っていますから、偽りの告発をするのは都合が悪いのです。そこでヤソンと面識がないと思われる当局者の方に、彼らを訴えたのです(6~7節)。ここでのユダヤ人たちの訴えの中心は、7節の後半の「別の王を立てて、皇帝の出す勅令に従わないように人々を仕向けている」という主張でした。実際には、パウロたちは積極的に皇帝の勅令に背くことを教えてはいません。この訴えは「イエスこそ救い主である」というパウロたちの主張から、ユダヤ人たちが勝手に解釈したに過ぎません。しかし群衆と当局者たちは動揺します。ローマ帝国から自治を認められているとはいえ、皇帝への反乱が起るのは好ましくないからです。そこてヤソンやほかの者たちから保証金を取り、もうパウロとシラスを家に受け入れることがないように約束させて解放しました。

 

 ここまで今日の物語の流れを見てまいりました。パウロたちが聖書を引用しながら説明し論証したことによって、彼らに従う人々と逆らう人々が、真っ二つに分かれました。彼らに従った人々は、聖書を引用しての議論の末に行動を起こした人々です。彼らの行動の土台には聖書の御言葉があり、神の言葉がありました。対して彼らに逆らったユダヤ人たちの行動の土台には、妬みがありました。その原因は、自分たちの集会に集う人々が減ってしまったことにあります。ユダヤ人たちも、聖書の知識は持っていました。けれども彼らの行動の土台になっていたものは、聖書の御言葉ではなく集会出席人数や妬みという自らの感情でした。行動の土台にあるものが、神の御言葉か否か。それがパウロたちに従うかどうか、さらに言うならば聖書に従うかどうかの分かれ目となりました。ここから、わたしたちの行動の土台にあるものが何なのかを改めて見つめたいのです。もちろん集会出席人数は大切ですし、不安や喜びなどの感情も無視すべきではありません。しかしそれらがわたしたちの行動の土台となったらどうでしょうか。集会出席人数を増やすことが、教会の主目的になりはしないでしょうか。あるいは、自らの不安を消すために教会に行く、喜びがないから教会に行く価値がない、といった不安定な信仰生活になりはしないでしょうか。わたしたちキリスト者の行動の土台に据えるべきは、神の御言葉以外にはありません。当たり前のことですが、案外難しいのです。聖書に聞いていたはずのユダヤ人たちでさえ、それができなかったのです。だからこそ改めて今日、聖書の御言葉に聞き続ける思いを新たにしましょう。聖書に示された十字架と復活の主イエスにキリストに従う決意を新たにしてまいりましょう。