2021年4月4日イースター記念礼拝説教「復活の主による平和と派遣」

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~23節

復活の主による平和と派遣

 

 イースターおめでとうございます。十字架につけられ殺された主イエスは、イースターの日曜日に復活されました。それによって主イエスが死に打ち勝たれたこと、また主イエスを信じるわたしたちも主の栄光の内に復活することが示されました。イースターの復活にこそ、キリスト教信仰の希望の中心があります。それゆえにわたしたちは、主イエスが復活されたイースターを「おめでとうございます」という言葉によってお祝いのです。

 今日の箇所にも、イースターの日曜日のことが記されています。主イエスの弟子たちが、家に集まっておりました。しかし彼らは、このイースターの日曜日を「おめでとう」と祝っていたのではありませんでした。大きな恐れの中にありました。このときの彼らはまだ、主の復活を信じていなかったからです。主イエスが殺されたのに続いて、今度は自分たちが殺される。そして自分たちにはそれに抵抗する力も権限もない。それが彼らの恐れでした。これほど大きな恐れの中にある弟子たちに、主の復活が知らされていなかったわけではありません。マグダラのマリアが、弟子たちに主の復活のことすでにを伝えています(18節)。それにもかかわらず彼らは、それを信じることができずに恐れ続けていました。世の大きな力に翻弄され、恐れているこの弟子たちの姿は、平日のわたしたちの姿ではないでしょうか。わたしたちは毎主日、復活の主の希望の御言葉に聞いています。しかしいざ平日に世へと遣わされるとき、そこには主イエスを救い主と認めない社会が広がっています。この大きな力を前にして、わたしたちの持つ力は微々たるものです。そのなかでわたしたちも、弟子たちと同じように恐れて生きているのではないでしょうか。わたしたちは事実上、主の復活を知らされたのになおも恐れている弟子たちと同じなのです。

 大きな恐れの中にある弟子たちに、そしてわたしたちに、主イエスはこのイースターの日曜日に出会ってくださいました。主イエスの復活を信じず恐れていた弟子たちを、主イエスは叱ることもできたでありましょう。そもそも主イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは逃げだしたのです。叱る理由はいくらでもあります。わたしたちもまた、キリストの前に立たされたとき胸を張って立ち続けることなどできません。しかしイースターに現れた主イエスがかけられる言葉は、お叱りではありませんでした。「あなたがたに平和があるように」。シャローム。平和。もう恐れなくてよい。そうおっしゃって、御自身の手とわき腹をお見せになりました。確かに御自身が復活されたことを、身をもって示してくださったのです。この言葉は、あいさつの言葉でもあります。日本語で言うならば「こんにちは」です。わたしを見捨てたお前たちなどもう知らない、と主イエスは言われないのです。主イエスは、挨拶の言葉をとおして改めて弟子たちとの関係を結びなおしてくださいます。弟子たちが自らの手で切ってしまった主イエスとの関係を、復活の主が再び修復してくださるのです。この主を見て、弟子たちは喜びました。恐れが喜びに変えられたのです。彼らの周りの状況が好転したわけではありません。しかし死を乗りこえて復活してくださった主イエスが、今目の前にいるのです。そしてその主イエスが、自分たちの平和を願い、関係を結びなおして共に歩んでくださるのです。ここに「おめでとう」と言うことができるイースターのお祝いが実現したのです。

 さて、復活の主イエスと出会って喜びに満たされている弟子たちを、主イエスは世へと遣わされます(21節)。イースターは、自分の恐れが喜びに変わって終わりではありません。主イエスはイースターに、わたしたちを世へと遣わされるのです。どのような働きへと遣わされるのでしょうか。それが22節と23節です。罪の赦しを宣言するのは、本来神の御業でありキリストの働きです(マルコ2:5,7,10参照)。この権威を、主イエスは弟子たちに委ねられます。そしてこの弟子たちの教えを記した新約聖書を土台とするキリストの教会に、この権威が委ねられていくのです。この権威は、自分の思い通りに罪が赦されるか否かを決める権威ではありません。あくまでも罪を赦す権威をお持ちなのは、神であり十字架のキリストのみです。わたしたちに委ねられるのは、神の御心によって罪が赦されていることを宣言する権威、あるいは神の御心によっては罪が赦されていないことを宣言する権威です。だからこそこの権威を委ねられるわたしたちは、聖霊すなわちキリストの霊をいただかなくてはなりません。そしてその権威は、信者個々人に単独で与えられているのではありません。先に申しましたとおり、弟子たちの教えを記した新約聖書を土台とするキリストの教会に与えられています。その教会に結ばれることをとおして、わたしたちはその権威を帯びるのです。教会に結ばれ主イエスに従うわたしたちに、主イエスは御自身の権威を委ねられるのです。こうしてわたしたちは、罪の故に苦しみ足を引きずるようにして教会に来た人々に、「あなたの罪はすべて赦された」と教会の一員として宣言するのです。同時にわたしたちは、世でもてはやされるキリスト以外の救いに対して、それでは罪は赦されず救われていかないことを、教会に結ばれた者として声を挙げていくのです。

 

 イースターを経ても、わたしたちの置かれている状況は変わりません。わたしたちの力は弱く。教会は小さいままです。しかし、イースターを経たわたしたちは大きく変えられているのです。わたしたちは、もはや丸腰で世の中に出ていくのではありません。教会から世へと遣わされるわたしたちは、罪が赦されていることを宣言する権威、罪が赦されていないことを宣言する権威を身に帯びる平和の使者として、世へと遣わされていくのです。