2021年3月28日受難週主日礼拝説教「成し遂げられた」

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書19章28~30節

成し遂げられた

 

 わたしたちの救い主、主イエスキリストの地上のご生涯は、わたしたち人間の罪の悲惨を担われる歩みでした。その極みが、十字架での苦しみ、受難でした。主イエスが十字架によって担われたわたしたちの悲惨がどういったものであるのか、今日の御言葉から向き合ってまいりましょう。

 今日の十字架の場面で繰り返されている言葉が「成し遂げられた」という言葉です。28節と30節に加え、28節後半の「聖書の言葉が実現した」も、もともとは「成し遂げられた」という同じ言葉です。この言葉は、成就する、終わる、完了するという意味も持っています。主イエスの地上のご生涯は、旧約聖書において告げられていたことを成し遂げ、完了させる歩みでした。主イエスが十字架上で苦しみぬいて息を引き取られたとき、旧約聖書に約束されていたことが、成し遂げられ、完了したのです。それゆえに、今日の箇所における主イエスの一つ一つの行動は、旧約聖書を意識して記されています。

 まず28節です。ここで主イエスは「渇く」と言われました。主イエスが十字架上で渇きを覚えられたのは、直接には流血による脱水のためです。十字架所で手足を釘で打ち付けられていますから、そこから血が流れています。それに伴う脱水によって主イエスは、激しい渇きに見舞われました。これが詩編22:16の成就として記されています。ところでこの渇きという言葉は、ヨハネ4:14で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」という主イエスの言葉に用いられています。わたしたちに渇くことのない永遠の命に至る水を与えるために、主イエスご自身がここで血を流し、激しく渇いておられるのです。ここにおいて、詩編22:16の言葉が成し遂げられ、完了したのです。

 続く29節では、人々が酸いぶどう酒を海綿に含ませて主の口元に差し出したとあります。酸いぶどう酒とは、酢を指す言葉です。ぶどう酒から造った酢です。この酢に関して、詩編69:22ではこのように記されています。

「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」

この実現として、29節以下が記されています。この詩編においては、渇くわたしへの嫌がらせとして人が酢を飲ませようとしています。酢は、飲めば飲むほど渇きが酷くなるのです。ヨハネ4章で主イエスが与えると約束してくださった命の水とは全く逆です。主イエスは酢を受けられる前からすでに渇いておられました。その主イエスに人々が与えたのが酢なのです。主イエスは、あえてそれをお受けになりました。渇きの極限です。そこまで渇いた末に、主イエスは「成し遂げられた」と言われ、息を引き取られました。

 これが、主イエスがわたしたちの身代わりに身に受けてくださった神の罰、罪の呪いです。これは本来、わたしたちが身に受けるべき罰であり呪いでありました。それを主イエスが十字架上で代わりに身に受けられらのです。「罪に対する神の罰」と言いましたが、神が降ってこられて主イエスを十字架につけられたのではありません。罪の中にある人々が自らの思いのままに行動したことによって、主イエスは十字架につけられたのです。神の罰といっても、わたしたちの日常生活とは違う神の領域での苦しみではないのです。わたしたちを含む人間が神から離れ、罪のなかで救われることなく歩み続けた先にある、なれの果ての姿。それが主イエスの十字架なのです。

 この箇所に示された人々の罪の姿とは何でしょうか。弱り果て渇いている人に対し、渇きが酷くなる酢を与える姿です。これは喉の渇きだけではありません。心の渇きを覚え、空しさの中に生きている人々がおります。貧困の中で、絶望の淵に渇いている人々がおります。そのような人々の渇きを癒すことなく、自己責任・自業自得・無関心という酢を与える。それが今日の箇所で渇きにあえぐ主イエスに酢を与える人々の罪の姿です。そしてそれは、今この御言葉を読んでいるあなたの姿だと聖書は指摘するのです。

 皆がこんな生き方をしていたら、いつか自分が渇いたときに十字架の主イエスと同じ状況に陥ることになるのです。わたしたちがこんな悲惨な姿になる前に、主イエスはその悲惨を身にお受けになられました。わたしたちがこの主イエスの十字架の姿を見たときに、この十字架は本来自分自身が行き着く先であり、それを主イエスが代わりに受けてくださったことを知るのです。そのとき、わたしたちの行き着く先は変わるのです。神と共に生きる道へ、神の愛のもとに帰る生き方へと変えられるのです。それは永遠の命に至る水をいただく生き方です。自分が渇かないだけではありません。渇いている人々に、酢ではなく、もう渇くことのない永遠の命に至る水を与える生き方です。

 

 こうして生き方を変えられたわたしたちに、十字架の主イエスは言われます。「成し遂げられた」と。これは単に旧約聖書が実現したというだけではありません。わたしたちが受けるべき十字架の罰が終わり、完了したのです。これこそ、主イエスが十字架上で成し遂げてくださったことです。わたしたちの行き着く先は、もはや渇きに渇きながら滅んでいく十字架ではありません。わたしたちからはすでに、人々の渇きを本当の意味で癒すことのできる永遠の命に至る水が流れ出しています。渇いている人々に当てつけのように酢を与える生き方から、渇きを癒す命の水を与える生き方へ、わたしたちは変えられました。この歩みの先に、主イエスを十字架につけてまでわたしたちの行き先を変えてくださった神が、手を広げて待っていてくださいます。この愛の神の御許へと帰る道を、共に歩み続けようではありませんか。