2021年3月21日礼拝説教「求める以上に聞かれる神」

 

聖書箇所:創世記17章17~27節

求める以上に聞かれる神

 

 17章の前半で神は、アブラハム夫婦と契約を結ばれました。その内容は、この夫婦から神の民が生まれて約束の土地を受け継ぎ、彼らのなかから王となる者たちが出る、というものでした。そして何よりも、神御自身が彼らの神となってくださるというものでした。その契約のしるしとして神は、アブラハムの家にいる男子全員に割礼を施すようにと、9節以降で命じられました。

 この契約を与えられたアブラハムの反応が、17~18節に記されています。アブラハムは神の御前にひれ伏しつつ、笑いました。諦めの笑いです。与えられた神の契約の内容が、現実とあまりにもかけ離れていたからです。もちろん神の契約の通りに自分とサラとの間に男の子が与えられるならば、彼にとってこんな嬉しいことはありません。しかし現状はあまりにも厳しく、そこから考えて神から示されている恵みはあまりにも大きすぎるのです。それゆえにアブラハムは、既に女奴隷との間に与えられているイシュマエルによって神の契約が実現していくことを望みました。神が与えると約束してくださった恵みに対し、アブラハムは現実を踏まえて大きくハードルを下げて願ったのです。神は、アブラハムのこの態度をお叱りにはなりませんでした。彼が、神の契約に対して疑い迷わざるを得ない状況に置かれていることを、神はよくご存じでした。アブラハムに対して神は、19節から改めて妻サラとの間に男の子が産まれることを神は宣言されました。そしてその子をイサクと名付けるように命じられました。アブラハムに与えられている神の契約は、すでに生まれているイシュマエルによってではなく、このときはまだ誕生していないイサクによって実現していくのです。

 ここにおいて、イシュマエルとイサクのどちらが神の契約の器として相応しいかが示されているわけです。イシュマエルは、アブラハムとサラの努力と工夫によって得た子供です。対してイサクは、完全に神の恵みによって与えられることになる子供です。自らの努力と工夫によって神に仕えるイシュマエルの生き方か、そういったものを超えた100%神の恵みを待ち望むイサクの生き方か。この二つの生き方が、ここで神の契約の実現を巡って衝突しています。アブラハムは、イシュマエルによって神の契約が実現していくことを望みました。すなわち、自らの努力と工夫の結果によって神の契約が実現することを望んだのです。これはわたしたちにも共通する思いではないでしょうか。わたしたちもまた、神のためになした自らの努力の結果としての恵みを求めがちです。神様、あなたのためになした私の努力や頑張りを祝福し、良い結果を与え、あなたの救いの御業に用いてください。わたしたちのこの願いは、18節でアブラハムがイシュマエルへの祝福を神に願った思いと共通しています。

 神は、アブラハムのこの願いを否定されませんでした(20節)。神はその願いを聞き、イシュマエルを十二の首長の父とし、また大いなる国民とすると約束してくださいました。神はイシュマエルの生き方にも、ある一定の祝福を与えてくださるのです。ただし神の契約の実現に関しては、イシュマエルは完全に除外されます。あくまで神は、妻サラが産むイサクとの間に永遠の契約を結ばれます。こうして、アブラハム自身が諦め、求めなかった望みをも、神は聞きあげてくださったのです。このようにして実現へと向かう神の契約は、アブラハム・イサクの子孫としてお生まれになる主イエスキリストによって人々が救われていく救いの契約として実現しました。救いということにおいては、人の努力や工夫ではなく、100%神の御業によってなされます。すなわち神の御業をどこまでも期待し待ち望むイサクの生き方をとおして、この驚くべき神の救いの御業は実現していくのです。

 神と語り終えたアブラハムは、23節以降で神との契約のしるしである割礼を家にいる男子全員に割礼を施しました。すぐその日の内に、神が命じられたとおりに行われました。これがアブラハムの信仰でした。こうして驚くべきイサクの誕生へと導かれていきます。さらにその先に、アブラハムが想像も求めもしなかった救い主イエスキリストの救いが実現していくのです。アブラハムの求めをはるかに超えた形で、神は彼の求めを聞いてくださったのです。

 

 神は、わたしたちが神に求めることを望んでおられます(マタイ7:7など)。それに対して、わたしたちは目の前の現実を見ます。そこには、聖書に記された神の約束がとても実現しそうにない状況が広がっています。そして、自分の努力で実現しそうな範囲まで、神に求めるハードルを自ら下げているのではないでしょうか。そんなわたしたちに対して、求める以上に、想像もしなかった形で祈りが聞かれた体験を、それぞれにお持ちではないでしょうか。神は、聖書をとおして約束された救いの御業を必ず実現してくださいます。それははわたしたちがひそかに笑い、諦めてしまう望みかもしれません。しかし神は、そのような望みをも聞いてくださるお方です。もちろんどのような形でその望みが聞かれるかは分かりません。家族の救いを願いつつも、何十年もかなわないことがあります。日本の教会は高齢化し、人数も減少傾向にあります。しかしどのような状況にあったとしても、わたしたちは神に期待してよいのです。誰かの救いへの望みを、わたしたちはもっと大胆に神にぶつけてよいのです。なぜなら人を救うのは、100%神の御業だからです。わたしたちがなすべきことは、その神の御業を期待し続けることです。神はわたしたちの求めをはるかに超えてその願いを聞きあげ、救いの希望を実現してくださいます。