2021年3月14日礼拝説教「筋を通す信仰」

 

聖書箇所:使徒言行録16章35~40節

筋を通す信仰

 

 キリスト者として生きるとき、しばしば周囲の方々との摩擦を経験します。そこで悩むのが、どこまで周囲の方々の生き方や考え方に寄り添い、どこからキリスト者としての生き方や考え方を主張していくべきか、ということです。それは個人としてだけでなく、教会としても常に問われます。その中で、「聖書の御言葉に従う」という筋を通すことは、決して失われてはなりません。その面で、パウロが高官たちに抗議している今日の箇所は、大変参考になります。わたしたちの生きる指針を、今日の御言葉から与えられたいのです。

 フィリピの町で宣教活動をしていたパウロとシラスは、不当に牢に入れられました。先週は、大地震をきっかけにこの二人がその牢から出て、看守と家族が救われるお話でした。これらはすべて、夜中に起こったことでした。今日の箇所は、夜が明けて朝になったあとの出来事です。夜中に牢から出たはずのパウロとシラスは、朝までに再び牢へ戻ったようです。その理由は記載がないので想像するしかありません。まず思いつくのは、看守を守るためです。パウロとシラスが牢に戻らなければ、看守は結局彼らの身代わりに罰を受けなければなりません。それを避けること。それが二人が牢に戻った理由の一つだったでありましょう。しかしそれだけではないようです。なぜなら彼らは、翌朝牢から出ることを許されてもなお、出ようとしなかったからです。朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて「あの者どもを釈放せよ」と言わせました。夜中に救われた看守が、36節でそのことをパウロに告げました。喜びのなかでそれを伝えたはずです。最後の「安心して行きなさい」という言葉は、ルカ7:50で主イエスが罪深い女に対して罪の赦しを宣言された後に言われた言葉です。それほどの喜びの中で、看守はパウロとシラスに釈放の知らせを伝えたのです。しかし二人は、すぐに牢を出ようとしませんでした。公然と高官たちに抗議をし始めます(37節)。

 ここで押さえておきたいのは、パウロの抗議の中心点です。ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にもかけずに鞭打って投獄したことでしょうか。確かにローマの市民権を持つ者に、鞭打ちを科すことは違法でした。しかしパウロの抗議の中心はそこではありません。高官たちが、「ひそかに」自分たちを釈放しようとしていることです。「ひそかに」という言葉は、その前の「公衆の面前で」という言葉と対比されています。パウロが一番問題にしていることは、不当な仕打ちを公衆の面前でしたのに、釈放するときはひそかに行おうとしたことです。だからこそ、高官たちが自分でここへ来て、つまり公衆の面前でわたしたちを連れ出すべきだと主張したのです。それを聞いた高官たちは出向いて来て公にわびを言い、二人を連れ出しました。

 彼らは投獄されるとき、危険な風習を広めるユダヤ人だ、と公衆の面前で言いがかりをつけられました(21節)。ですから高官たちが公衆の面前で謝るこのときまで、群衆はパウロやシラスのことを、法を犯し社会秩序を混乱させる人々のように理解していました。彼らが群衆からそのように思われるということは、彼らの伝えているキリストもまた怪しく危険な人物だと誤解されているということです。この誤解を解くこと。それが、今日の箇所でパウロが牢に留まり続け、高官たちに抗議した一番の目的です。パウロ自身は、自分の名誉はどうでもよかったはずです。しかし人々にキリストが正しく理解されておらず、キリストの名誉が傷つけられていることについては、断固として抗議したのです。キリストの名誉を守る。このことに関して、パウロは筋を通したわけです。

 一方で、パウロは所かまわず抗議したわけではありませんでした。パウロたちは、夜中に牢を出たわけですから、そのまま高官たちのところへ行って抗議することもできたはずです。しかしそれをせず、彼らは牢に戻りました。法を犯す脱獄犯のように見られたくなかったのだと思うのです。キリストを宣べ伝える者が人々からどう見られているかは、宣教に大きく影響します。教会が社会に受け入れられ、人々にキリストが正しく受け入れられてこそ、救い主キリストを人々に伝えることができます。そのために、キリストが犯罪集団の頭としてではなく、秩序ある平和の中で命を守るお方であることが世に示されていく必要があります。しかしこれは、人々との摩擦をすべて避けて、すべて社会に合わせて生きればよいと言うことではありません。パウロが高官たちに抗議したように、筋を通すべきときがあるのです。それはキリストの名誉にかかわるときです。キリストが人々に誤解され、間違って理解されているときには、毅然と行動すべきです。キリストに救われたわたしたちは、自分を救ってくださったキリストを正しく世に示すために生かされています。そのために、今日のパウロが高官たちに抗議をしたように、毅然とした態度で政治や社会に声を上げなければならないときがあるのです。

 

 冒頭に申しましたとおり、キリスト者として生きるとき、世との関りは大変難しいのです。しかしどのような行動を取るにせよ、動機は同じです。キリストの名誉を守るために、わたしたちはあらゆることをおこなうのです。キリストは、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)と言われました。わたしたちが自分の命や名誉のために生きるとき、それはかえって命を損なう辛い生き方になっていくのです。しかしわたしたちが、自分のために生きるのではなくキリストの名誉のために生きるとき、本当の意味でわたしたちの命は生かされるのです。だからこそ、わたしたち信仰生活においても「キリストの名誉を守る」という筋を通してまいりたいのです。