2021年2月21日礼拝説教「神の御業を喜べない人々」

 

聖書箇所:使徒言行録16章16~24節

神の御業を喜べない人々

 

 フィリピでパウロが占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会うことから、今日の物語は始まります。彼女は、占いによって主人たちに多くの利益を得させていました。彼女の行っていた占いは、お金儲けの手段としては大変優秀だったようです。女奴隷にそれをさせていたのは、占いの霊です。占いは、律法によって明確に禁じられています(申命記18:10)。従って占いの霊とは神の御心に逆らう霊であり、悪霊と同様に考えてよいでしょう。

 ところで女奴隷はギリシア語で「パイディスケー」という言葉で、少女という意味もあります。ですから、いくつかの英語訳の聖書は女奴隷を「slave-girl」と訳しています。この女奴隷が少女であるならば、この箇所の見え方が変わってきます。世の中で最も弱い立場にある少女を、強い立場にある主人たちが搾取するという構図があらわになります。ですからこれは、「過去の出来事」として済ますわけにはいきません。弱い立場の人々、特に少女を搾取することは、わたしたちが生きている現代においても起こり続けています。不都合な真実でありながらも、少女のような弱い立場の人々を搾取する状況に安定してしまう。それがこの世の現実です。

 このような不都合でありながらも安定した状況が、女奴隷である少女とパウロたち一行との出会いによって崩れていきます。パウロたち一行と出会った彼女は、幾日も叫び続けます(17節)。正確には、彼女に取りついていた悪霊が彼女に叫ばせたということでしょう。聖書に出てくる悪霊は、主イエスが救い主であることを知っていながら、「構わないでくれ」と関係を拒みます(ルカ4:34、8:28)。今日登場する占いの霊も同じです。この霊は、「皆さんに救いの道を宣べ伝えている」と叫んでいます。「わたしの救いの道」ではないのです。この占いの霊が、幾日もパウロたち一行の後について叫び続けたことにより、彼らの宣教活動には大いに支障があったようです。この霊にたまりかねて、パウロは言います。

「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」

すると即座に霊は彼女から出ていきました。結果この少女は、それまでしていた占いをしなくなりました。彼女の主人たちにとっては、金儲けの望みがなくなってしまいました。19節の「望みがなくなってしまった」という部分の言葉は、直訳すると「望みが出て行った」となります。パウロが霊に向かって出ていけと命じると、霊は出ていき、金儲けの望みも出て行った。そんな、印象的な文になっています。主イエスの名によって悪霊が出ていったことによって、弱い者を強い者が搾取するという安定した状況に変化が起こったのです。金もうけの望みが出ていってしまった彼女の主人たちは、パウロとシラスを捕らえて高官たちに訴え出ます。パウロたち一行のなかでも彼らだけが捕らえられたのは、二人が生粋のユダヤ人の血を引いていたからです。20節の訴えの中でも「この者たちはユダヤ人で」と言っており、彼らがユダヤ人であることを強調しています。この町にはもともとユダヤ人たちに対する強い差別意識があったものと思われます。ですからここでの訴えというのは、公平な裁判ではなく、差別意識に基づく一方的な難癖に近いものです。高官たちはろくに裁判をすることなく、二人を鞭で打って牢に入れます。さらに看守に対しては、厳重に見張るように命じました。こうして彼らは一番奥の牢に入れられることになり、足には木の足かせまではめられました。

 なぜ彼らは、これほどまでに厳重に二人を投獄したのでしょうか。一つは、この後なされる神の御業を際立たせるためでありましょう。それだけでなく高官たちや主人たちが、これ以上、安定した今の状況に変化を起こしてほしくなかったからです。彼らは搾取する側であり、現状の安定に留まるほうが安全で、都合がいいのです。だからこそ、安定を崩す神の御業を徹底的に抑え込むために二人を厳重に監視させたのです。彼らは、神の御業による変化を恐れたのです。変化を求めず、現状に留まろうとするならば、変化をもたらす神の御業を喜ぶことはできません。

 わたしたちはどうでしょうか。いま自らが置かれている現状に100%満足している方はおられないでしょう。けれども、その理想的でない現実を、仕方ないとあきらめてはいないでしょうか。理想的でないことには、それ相応の理由があります。理想的ではなくても現状に安住すれば、今持っているものを失うことはありません。新たに得ることよりも、今持っているものを失う方が、人は怖いのです。だからこそ誰もが変化を恐れ、見たくない現実には目を背け、安全な現状に留まろうとするのです。しかしそれを打ち破るのが神の御業です。事実、キリストの十字架の御業によってわたしたちの生き方は大きく変えられました。安定した歩みのなかでは、人は救われていかないのです。安定をかき乱され、自らをゆるがす危機に見舞われて、自分自身の弱さに絶望する。そんななかで、キリストの十字架を見上げることによって、人は救われていくのです。ですから、安定した現状に留まることを望むならば、神の御業を喜ぶことができません。変化を嫌って神の御業を押しとどめるのではなく、勇気をもってそれに身をゆだねるとき、わたしたちは驚くべき神の御業を喜ぶことができるのです。

 

 神を信じたのになぜ心が揺れ動くのかと問われることがあります。これは不信仰が原因ではありません。それが、神の御業なのです。神である主イエスもまた、十字架を前にしたゲッセマネで心が揺れ動いておられました。神はわたしたちを、セーフティーではなくセキサイティングな信仰生活へと導かれます。そこにこそ、人を救う神の御業は現れるのです。この御業を喜ぶ者であろうではありませんか。