2021年2月7日礼拝説教「信じる者のもてなし」

 

聖書箇所:使徒言行録16章11~15節

信じる者のもてなし

 

 現在ヨーロッパの多くの国々がキリスト教国と言われています。このヨーロッパに最初に福音が告げられたのが、今日の場面です。直前でパウロたち一行は、聖霊によって海沿いの町トロアスへと導かれました。ここでパウロは、海の向こう側のマケドニア州の人々が助けてほしいと願う幻を見ました。これを神の召しと理解し、彼らはすぐに船出します。サモトラケ島で一泊した後、ネアポリスの港に着きました。そこから少し内陸にあるフィリピに彼らは滞在しました。この町は、この地域の主要都市のひとつでした。

 フィリピに数日間滞在するなかで、彼らは安息日に町の門を出て川岸に行きました。ここならユダヤ教の人々がいるだろうという見立てのもと、彼らはそこへ出かけました。そして実際に婦人たちがそこに集まっていたので、そこで話をしたことから物語が展開していきます。ここで、リディアという回心者が与えられます。彼女はティアティラ市出身の紫布を商う人でした(14節)。ティアティラ市は、現在のアクヒサル(トルコ西方)に存在していた町で、染め物の産地でした。この町で染められた布を、フィリピで売る。これがリディアの仕事でした。女性でありながらも商人として生計を立てていたリディアは、いわばバリバリのキャリアウーマンだったわけです。そんな彼女は、神をあがめる熱心な信仰者でもありました。主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞き、洗礼へと導かれました。彼女だけでなく、彼女の家族の者も洗礼を受けました。「家族」と訳されているもともとの言葉は「家」です。彼女は商人ですから、彼女の家は彼女のお店でもあったと思われます。そこにいるのは、奴隷たち(現代でいうところの従業員の立場に近い)です。彼女と同じ所で過ごし、共に働いていた人々が、彼女が信じることによって一緒に洗礼へと導かれました。

 洗礼を受けたリディアは、自らの家にパウロたち一行を半ば強制的に迎え入れました。彼女は自らの意志で、パウロたちを家に迎え入れたのです。かなり長期にわたって、リディアは彼らを家に泊め、お世話し続けました。後にこの家が、フィリピ教会になっていったと考えられます。この教会は、贈り物によってパウロの宣教旅行を中心的に支える教会に成長していきました(フィリピ4:15)。フィリピ教会は、主に仕えることに大変熱心な教会となったのです。そしてこの教会が、ヨーロッパ全体にキリスト教が広まっていくための最初期の活動を、中心的に担ったわけです。この教会が、リディアが開放した彼女の家から建てられていくことになります。

 ところでリディアが開放した自らの家とは、彼女にとってどのような場所だったのでしょうか。リディアはバリバリのキャリアウーマンでした。そして彼女の家は、彼女の店であり職場でした。ですから彼女の家とは、商人として働き、成功を収めてきた彼女の人生そのものだったのではないでしょうか。それを彼女は、神の働きのために開放したのです。誰かにお願いされたのではなく自らの意志によって、彼女は自らの人生全体を主にささげたのです。彼女が自らの人生全体をささげたのは、自らのために人生全体をささげてくださったキリストへの思いがあったからでありましょう。キリストはわたしの救いのために、人生すべてを十字架上でささげてくださった。今度はわたしが、自らの人生をキリストのためにささげる番だ。そういった思いで、彼女は自らの家を開放したのです。それが彼女にとっての献身でした。この彼女の献身が、後々驚くべき神の御業へとつながっていったのです。

 「献身」という言葉は、ある人が牧師になることを指すこともあります。しかし献身は、必ずしも今持っているキャリアを捨てて牧師になることだけを指すのではありません。この後リディアも、おそらく牧師になったわけではないのです。相変わらず紫布の商人として働き、キャリアウーマンとして生き続けたのです。しかし彼女は自らの家を開放することで、彼女の人生そのものである商売をも、神のために用いたのです。献身とは何かを捨てることではなく、与えられた人生全体を神に献げて神のために用いることです(一コリント10:30)。それが彼女の献身です。そしてまた、わたしたちが招かれている献身の道なのです。この献身の一番わかりやすい姿が、牧師なのでしょう。その意味では、牧師になることを「献身」と言うことには理由があるのです。けれども、牧師になるだけが献身ではありません。家庭においても、仕事においても、それを神に仕えることとして行うことが、わたしたちの献身なのです。わたしたちが神にささげる時間は、礼拝や奉仕のときだけではありません。わたしたちがささげるお金は、献金だけではありません。わたしたちの生活のあらゆることを、人生のすべてを、神に仕える行為として行うこと。これこそが献身です。リディアの献身は、ヨーロッパ全土にキリスト教が広まる土台となりました。彼女は、自分の家を開放したことが、このような結果につながるとは思っていなかったでありましょう。彼女は偉業を成し遂げたのではありません。家を開放しただけです。しかし彼女はそれを、人生全体をささげて行いました。たとえ小さくても人生全体をささげる献身を、神は大きな御業として用いてくださるのです。

 

 同じように神は、わたしたちをも用いられます。それは小さな人生かもしれません。日々同じように繰り返されていく平凡な日常かもしれません。しかしそれを神に仕えるために行うことをとおして、わたしたちの周りの人々が洗礼に導かれていくのです。こうして、神の国がもたらされるのです。わたしたちのために人生すべてをささげてくださったキリストに、わたしたちも人生すべてをささげていこうではありませんか。驚くべき未来が、その先に備えられています。