2021年1月24日礼拝説教「顧みてくださる神」

 

聖書箇所:創世記16章1~16節

顧みてくださる神

 

 創世記からの説教は間があきましたので、前回までの振り返りから始めましょう。アブラムとサライという夫婦のお話が続いています。アブラムは神の民イスラエルの先祖であり、わたしたち信仰者の代表です。アブラム夫婦には、年をとってなお子どもが与えられませんでした。神はこの夫婦をお選びになり、カナンの地へと導かれます。そして神は、アブラムと彼の子孫にカナンの土地を与え、あなたの子孫を天の星のように増やすと約束されました。15章では、神が確かにこの約束を果たしてくださることを、神御自身が保証してくださいました。アブラムに求められるのは、神がこの約束を実現してくださるのをただひたすら待つことでした。こうしてアブラムがカナン地方に住んでから十年の時が経ちました(3節)。それでもまだ二人には子どもが与えられませんでした。そしてついに待ちきれなくなり行動を起こしたのが、今日のお話です。

 まず妻サライが、彼女の女奴隷ハガルを側女とすることを提案します。彼女は、神の約束の実現を信じていなかったわけではありません。神の約束の実現のために、自分たちも何かしらの努力や工夫が必要なのではないかと思ったのです。サライの提案は、現代のわたしたちから見ると驚くべき内容です。けれどもこの時代は、それが常識的なことでした。アブラムは、サライの願いを聞き入れまして、エジプト人女奴隷ハガルが連れて来られます(2節後半~3節前半)。 この部分の主要な内容を直訳すると次のようになります。「アブラムは、妻サライの声に聞き従った。サライはハガルを取って、アブラムの妻として与えた」。アブラムはサライに聞き従う。サライは、奴隷を取って妻として与える。この場面においては、もはやサライが神になり変わっています。最初のうちはサライの目論見どおりに事が進み、まもなくハガルが身ごもります。しかしここから目論見は外れていきます。ハガルは自らが身ごもっていることがわかると、女主人を軽んじるようになりました。サライはアブラムに不平をぶつけます。対するアブラムは、無関心を決め込みます。サライがハガルにつらく当たったため、ついにハガルは逃げ出します。結局、事態は何も解決せず、むしろ悲しみや痛みがもたらされる悲惨な結果へと至りました。このような状況で、神が介入されます。

 シュルはエジプトとの国境付近の地名ですから、逃げたハガルはエジプトに帰ろうとしていたようです。その道中に主の御使いが出会い、ハガルに問いかけます。「どこから来て、どこへ行こうとしているのか」と。ハガルは「どこから来て」という最初の問いにのみ答えました。彼女はエジプトに向かっていたのですが、実際には行く当てがなかったのです。彼女は妊婦です。妊婦が故郷に向かって当てもなく旅をしています。もう不安しかありません。そんな彼女に主の御使いは、女主人のもとに帰って従順に仕えるよう命じます。これは、かつての辛い日々に戻ることを意味します。しかし主の御使いの言葉は絶望では終わず、子孫を増やす約束が続きます(10節)。主語が「わたしは」ですから、主の御使いは、主なる神御自身でもあります。実際13節以降のハガルは、主なる神と直接お会いしたことを前提に話しています。主御自身が、ハガルに希望を語られました。さらに主は、生まれてくる子にイシュマエル(神は聞く)と名付けるようにと命じられます(11節)。このくだりは、ルカ1:31のマリアと天使のやりとりと大変似ています。主イエスが神の御心によってお生まれになったように、イシュマエルもまた神の御心によって生まれたのです。

 このイシュマエルから、イスラエルの民の周辺に住む別の民が生まれていくことになります。彼らは神の民ではありません。それゆえに11節では土地についての約束は与えられず、子孫が増えることのみ約束されます。それでもハガルにとっては、十分な恵みでした。彼女は、主なる神の御名を呼んで「エル・ロイ」と言いました。こうしてイシュマエルが誕生しました。結果として彼から、神の民を悩ませる別の民が起こされていきます(12節)。しかしそれは、妊婦のまま荒れ野でさまよう不安のなかにあったハガルを顧みられた神の御心によって起こったのです。そもそもハガルが受けた悲惨は、アブラムとサライが神の約束の実現を待ちきれなかったことによってもたらされました。さらにもう一つ。アブラムとサライは、ハガルの名前を呼ばないのです。彼女を女奴隷と呼び、道具のように扱っています。愛がないのです。今日の御言葉における悲惨な状況は、神の民が愛を失い、他の人を道具のように扱った結果としてもたらされました。その悲惨が、神の民ではないハガルにまで及んだのです。神を信じている者が愛を失うことによって、神の民ではない人々をもまきこむような悲惨がもたらされるのです。主イエスを十字架にかけたのも、神の民であるはずの人々でした。神の民すらも愛を失っている悲惨な状況の中で、神だけは愛を示されるのです。アブラムやサライから女奴隷としか呼ばれなかったハガルを、神だけは「ハガルよ」と呼びかけられました(8節)。罵倒の言葉が飛び交う十字架上で、主イエスだけは、自らを十字架につける人々の罪の赦しを祈られました。

 

 このお方に救われたわたしたちが愛を失ってはなりません。わたしたちを悩ませ苦しめる人々にも、愛を向けてまいりたいのです。そこにもまた、ハガルを顧みてイシュマエルを誕生させた神の御心があるからです。その意味で、敵を愛せよと命じられた主イエスの言葉を思い起こしたいのです。自らの工夫や努力によって神の愛を勝ち取ろうとするのではなく、敵をも愛される神の愛を待ち望む者でありましょう。それが激しい分断のなかにあるこの世界と、愛を失っているわたしたちに必要なことでありましょう。