2021年1月17日礼拝説教「行きたい道と行くべき道」

 

聖書箇所:使徒言行録16章6~10節

行きたい道と行くべき道

 

 直前の5節で、日ごとに教会の人数が増えていくという驚くべき実りが与えられました。ここからパウロたち一行は、新しい地で宣教することこそ神の御心だという思いに至りました。彼らが最初に行こうとしたのは、アジア州のおそらくエフェソでした。エフェソは大きな町で、しかもそこへ行く街道も整備されました。宣教のために、すべてが整えられているように見えました。しかし、アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられました。そこで今度は、ビティニア州に入ろうとしました。しかしイエスの霊がそれを許しません。そこで西に向きを変えてトロアスに下っていくのが今日の道筋です。聖書巻末の8番の地図ではイコニオンからトロアスへまっすぐ向かったかのように線が引かれています。けれども実際には、一度北に行ってから西に向かう大回りな道だったはずです。

 パウロたち一行が自らの意志でこのような道をだどったのはないことは明らかです。彼らは進むべき道を見いだせないまま数百キロもの道のりをさまよい、トロアスへとたどり着きました。ここでパウロは幻を見ました。一人のマケドニア人が立って願うのです。「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と。「助けてください」は、カナン人の女が主イエスに助けを求める言葉と同じです(マタイ15:23)。救いを求める切なる懇願を、幻の中でマケドニア人がパウロにしたのです。幻は、神が御心を示す手段として用いられます(使徒10章など)。ただこの幻で語っているのは、神ではなくマケドニア人です。それでもパウロは、これが自分たちへの神の召しだと確信しました。そう思うことができたのは、行くべき道をパウロが切に祈り求めていたからです。幻によって神からの召しを示されたパウロは、すぐに海の向こうのマケドニア州へと出発しました。その結果この宣教旅行は、より広範囲に展開していくことになるのです。

 このようにパウロたち一行は、当初予想もしていなかった地へと導かれていきました。結果だけ見れば、神の導きによって素晴らしいことが起こっています。けれども今日の箇所において、パウロは大変辛い時間を過ごしたのではないかと思うのです。パウロ自身が行きたい道と、神の御心に基づく彼の行くべき道が違っていたからです。わたしたちの歩みの中でもよくあることでありましょう。例えば旧約聖書のヨナのように。ただ、今日の箇所でパウロが行きたいと願った道はヨナとは異なり、決して神の御心に反して進もうとした道ではありません。5節でたくさんの回心者が与えられたので、より多くの人がいる町で御言葉を伝えることこそ神の御心だと確信して進んだ道です。しかしその道が、あろうことか神の御心によって妨げられました。想像していただきたいのです。神の御心を確信するような出来事を体験し、その結果いろんなものを捨てて神様のために仕えようとしたにもかかわらず、それがうまくいかない。その道が徹底的に、妨げられる。このようなときこそ、わたしたちの信仰は大きく揺らぎます。おそらくこのときのパウロも、そうだったと思います。

 なぜそのようなことが起こるのか。神にはわたしたちが計り知れない御計画があるからです。しかしそれだけでなく、わたしたちが謙遜にさせられるためでもあるのです。5節のような大きな実りが神から与えられているときは、誘惑のときでもあるのです。神の御心が分かった気になる誘惑です。これこそ神の御心に違いないということで、あたかも神の御心が自分の手の中にあるように思えてしまうのです。他の人よりも、自分こそが神の御心が分かっていると感じてしまう。その小さな理解を握りしめ、それに固執して突き進もうとする誘惑があるのです。仮にそのような状況で、誰かにその道がさまたげられたとしたらどうでしょうか。自分をさまたげる者は神の御心に逆らっている。そんな思いになりはしないでしょうか。この瞬間、自分が神になってしまうのです。神に従おうとした道が閉ざされたときこそ、わたしたちの心の中にあるものがあらわにされるのです。パウロもまた、神に従って歩もうとした道がさまたげられました。しかし彼はそれを神の御心だと受けとめることができました。それは彼が、自分は神の御心を知りえないという謙遜さを持ち合わせていたからです。そして、自らが知りえない神の御心を祈り求めていたからこそ、トロアスで見た幻を神の召しと捉えて、すぐに行動することができたのです。

 ところで16:10からは、主語が「わたしたち」になっています。ここで著者であるルカが合流したようです。この人はトロアスからパウロの旅に同行したと考えられています。ルカは、医者でもあります(コロサイ4:14)。危険な旅に医者が同行してくれる。こんな頼もしいことはないのではないでしょうか。ここにも神のご配慮があったのです。しかも、ルカがこの旅に同行することが、ルカ福音書と使徒言行録の執筆へとつながります。パウロが行きたい道をさまたげられた出来事が、驚くべき結果へと結びつきました。

 

 このように大きな御計画の中でパウロを導かれた神が、わたしたちの歩みをも導いてくださっている。このことを、ぜひとも覚えたいのです。わたしたちにはどうしても、自分の思い描く計画をそのまま握りしめたい、予測できる安全な道を進みたいという思いがあります。しかし自らの計画を握りしめるのではなく、それをいつでも手放して神の御計画を祈り求める自由を持っておきたいのです。これは決して先の見通せる安全な道ではありません。不確かで危険な道です。今日のパウロたち一行も、不安の中で数百キロの道のりをさまよったのです。しかしその先にこそ神は、すべてに整えられた御計画へとわたしたちを導いてくださるのです。