2021年1月10日礼拝説教「配慮と信仰」

 

聖書箇所:使徒言行録16章1~5節

配慮と信仰

 

 第二回宣教旅行に出発したパウロは、先週の箇所ですでにシリア州やキリキア州を回り、教会を力づけました。それに続く今日の箇所は、デルベ、リストラ、またイコニオンという町が舞台です。これらの町はガラテヤ州に属しており、第一回宣教旅行ですでに御言葉を宣べ伝えたところです。15;36にある旅の目的が、本格的に実行されていきます。

 パウロはこの地でテモテに出会いました。彼の母はキリスト教の信者、父は異教徒という家庭でした。ただ、父はすでに亡くなっていたようです。2テモテ1:5に彼の母エウニケと祖母ロイスが言及されています。おそらくこの二人がもともと熱心なユダヤ教徒で、テモテに熱心に聖書教育をしていたと考えられます。パウロの第一回宣教旅行において一家共々キリストを信じることになったのでしょう。もともと熱心なユダヤ教徒であった母エウニケでしたが、テモテに割礼を受けさせてはいませんでした。おそらく異教徒である父親への配慮によるものと思われます。このような家庭で育ったテモテは、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人でした。二つの町の距離はおよそ32㎞で、浜松から豊橋や掛川の距離です。当時の移動は、基本的に徒歩ですから行き来は大変です。それでも教会間で、人的な交流があったことが分かります。この当時から教会どうしの交わりのなかで教会が建てられていたことがわかります。その交わりのなかで、テモテは評判になっていました。兄弟たちからの良い評判を得ることは、教会の役員として召されるうえで不可欠なものです(使徒6:3)。テモテがその条件を満たしていたことがここから読み取れます。

 パウロは、この青年テモテをぜひ一緒に旅に連れて行きたいと願いました。そのために、テモテに割礼を授けました。このパウロの行動は、しばしば議論を生んできました。なぜならパウロ自身が、救いに割礼は必要ないことを強く主張しているからです。確かにテモテ自身が救われるために、割礼は必要ありません。しかしテモテがパウロと共に宣教の働きをするとなれば、話は変わってきます。この当時の主要な伝道の相手は、なんといってもユダヤ人でした。そしてそのユダヤ人のなかには、割礼を受けていなければ同胞と認めない人が一定数いたのです。そのような人々に対しては、割礼を受けている者でなければ主イエスの福音を伝えることはできません。そのためパウロは、共に働こうとしているテモテに割礼を授けたのです。これはパウロが一コリント9:20で書いていることにも一致しています。この考えに基づいて、他者の救いのために働くテモテにパウロは割礼を授けたのです。割礼は強烈な痛みと流血を伴う儀式です。テモテとしても、そのような痛みを負ってでも(文字通り身を切ってでも)、人々に主イエスによる救いを伝えたいと願ったのです。パウロにしてもテモテにしても、ここにあるのは伝道する相手への配慮です。

 こうして彼らが伝えたことは、「エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守ること」(4節)でした。エルサレムの使徒と長老たちがこのように決めましたから、これを守りなさい。こう人々に伝えたのです。このように言いますと、上から目線で人々に命令しているように感じるかもしれませんが、そうではありません。4節にある規定とは、具体的には15:28,29のことです。ここ読んでいただければ分かりますが、決して上から目線で命じているものではなく、異邦人たちへの配慮に満ちた内容です。エルサレム教会は、もともと割礼を受けたユダヤ人しかいませんでした。その状態に留まれば、わざわざこんな配慮をする必要はありません。しかし教会は、異邦人を受け入れる姿勢を明確にし、このような配慮の規定を決めました。それをパウロや、テモテなどの協力者が人々に伝えることによって、教会は信仰が強められ、日ごとに新たな信仰者が生み出されていったのです。

 今日の箇所で教会を成長させたのは、配慮でした。しかもそれは特定の人々が自らの身を切って相手に合わせることによってなされた、目に見える行動を伴う配慮です。これが、教会を成長させたのです。配慮とは、辞書の意味で言うならば相手への心配りです。そのなかでも今日の箇所でなされた配慮は、自らの居心地の良さを相手のために手放すことです。割礼を受けたテモテがそうでした。エルサレムの使徒と長老たちの決めた規定もそうでした。そして何よりも主イエスがわたしたちのために十字架にかかられたことが、わたしたちへのご配慮でした。主イエスは天におられたままであれば、居心地が良かったでありましょう。しかしそれを手放して天から降り、悩み多き地上の歩みの末に十字架にかかってくださったのです。それは、わたしたちを救うため、悲惨の中に生きるほかなかったわたしたちを、居心地のよい神の御許へと立ち帰らせるためでした。これが、十字架で身を切られるという行動で示された目に見える神のご配慮です。このように、自らの居心地の良さを相手のために手放す行動を伴う目に見える配慮こそ、教会を生み出し教会を成長させるのです。

 

 キリストはわたしたちのために身を切って配慮してくださいました。その配慮をうけて救われたわたしたちが、いかに誰かのために身を切って配慮することができるか。ここに教会の信仰の成長と誰かの救いがかかっているのです。誰かのために自らの居心地の良さを手放すことは、痛みと危険を伴います。自らがすでに得ている居心地の良さに留まった方が安全です。しかしあえて相手のために自らの居心地の良さを互いに手放し合うことができるなら、そこにこそ十字架によって配慮してくださったキリストの愛が現れるのです。そのような教会を、共に建てあげていこうではありませんか。