2021年1月3日礼拝説教「主の恵みを届けるために」

 

聖書箇所:使徒言行録15章36~41節

主の恵みを届けるために

 

 14章までで行われた第一回の宣教旅行によって、多くの回心者が与えられました。そのなかで、異邦人改宗者が救われるために割礼を受けることが必要か否かが問題となりました。15章でそのことについて議論され、異邦人改宗者に割礼は求めないことが教会全体で確認されました。それをうけて16章からは、パウロが第二回の宣教旅行へと向かいます。ここからより広範囲に、そしてより積極的に、異邦人へ宣教がなされていくわけです。

 今日の箇所は、この第二回宣教旅行が行われることとなった経緯が記されています。この宣教旅行の当初の目的は、すでに主イエスを信じている兄弟たちを訪問し、彼らがどのようにしているか見るということでした。このことが、旅の道筋にも表れています。第二回宣教旅行で最初に向かったのはデルベやイコニオンです。これらの町々は、第一回宣教旅行で回心者が与えられ、同時に激しい迫害があったところでした。これら困難な地で今も信仰生活を送っている兄弟たちをサポートすることが、第二回宣教旅行の当初の目的だったわけです。

 パウロはこの時に限らず、兄弟姉妹へのサポートをとても大切にする人でした。このことが今回の意見の衝突に関係しています。きっかけは、バルナバがマルコと呼ばれるヨハネを旅に同行させたいと考えたことでした。マルコは、現在でいうならば青年会の会長のような存在でした。熱心な若手信仰者です。その熱心さが買われまして、彼は第一回宣教旅行でパウロとバルナバに同行しました。しかしそのときは、パンフィリア州で迫害が激しくなっていくあたりで、一行から離れて帰ってしまいました(13:13)。そんな彼を、バルナバはまた宣教旅行に連れていきたいと思いました。若手のマルコに、もう一度チャンスを与えようではないか。おそらくそんな思いだったでしょう。もしまた失敗したとしても、それも経験になるではないか、と。対してパウロは、それに強く反対しました。この箇所を読んで、二人が喧嘩別れをしたかのような印象を持たれるかもしれませんが、そうではありません。38節の「連れて行くべきではない」と訳してある部分は、新改訳2017では「連れて行かない方がよい」と訳されています。パウロは、マルコが宣教師失格だと主張したのではありません。これから行おうとしている働きに関しては、マルコを連れて行かない方がよいと主張したのです。この働きは、迫害のなかで信仰生活を送る兄弟姉妹たちの霊的な命がかかっています。人が救いに留まり続けることができるか否かが、この宣教旅行にかかっています。であるならば失敗は許されないと、パウロは考えたのです。こうして、パウロとバルナバの意見が激しく衝突しました。それは、兄弟姉妹の霊的な命がかかっているからです。わたしたちが与り、また宣べ伝えているこの福音に、人の命がかかっている。この緊張感を、わたしたちは持てているでしょうか。もちろん教会に赦しはあってしかるべきです。けれども、それにあまえて緊張感が失われてはなりません。わたしたちのいただいている福音は、人の命に関わることであるということを改めて覚えたいのです。

 さて、このような激しい意見の対立の末に、当初の計画とは違う形で宣教旅行が行われることとなりました。結果として、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かうことになります。そこにいる兄弟姉妹たちのための大切な働きへと、彼らは旅立ったのです。一方パウロはシラスと共に、別の地へと旅立ちました。シラスは、直前の箇所においてエルサレム教会からアンティオキア教会へ派遣された預言者、すなわち御言葉の教師でした。アンティオキア教会の人々にとっても安心できる人物ですから、この教会から送り出される宣教師として適した人物だったのです。このように、地理的な面でも人的な面でもより充実した形で宣教活動が行われることとなり、彼らはそれぞれの地へと旅立っていきました。

 わたしたちも、これから今年一年の旅路を歩みだそうとしています。その旅路を始めるにあたって、第二回宣教旅行の旅路を進みだした今日の御言葉からいくつかのことを学びたいのです。まずは、わたしたちが委ねられている主イエスキリストの福音が、人の命に関わるものだということです。もちろん人を救うのはどこまでも神の御業です。しかしその福音を委ねられた者としての真剣さを、是非ともわたしたちは持ち続けたいのです。それと同時に、もう一つわたしたちが学びたいことは、常に自らの考えや計画が変えられる心構えを持つことです。教会における意見の衝突は、自らの意見を押しとおすために行うのではありません。より御心に沿った形で働きを行うためです。今日の箇所は決して喧嘩別れではありません。意見の衝突の後、それぞれが互いに召された働きへと励んでいます。その証拠に、この後に書かれたパウロの書簡において、バルナバとマルコへの敬意は決して失われていないのです。主の恵みを伝えるために真剣に議論をし、こうと決まれば互いに尊敬しながら主の恵みのためにそれぞれの働きに召されていく。それが今日の箇所に記された信仰者たちの姿です。

 

 どこまでも主の恵みを伝えるために働く彼らのこの熱い姿を、わたしたちの教会のこの年の姿としてまいろうではありませんか。昨今このように、共に集まることが大変難しい状況です。けれども、わたしたちの前には多くの課題があります。困難の中にある人々も多くおります。そのために話し合って決めるべきことが多くあります。行うべきことが尽きることはありません。人の命の救いに関わる主イエスの十字架の福音を扱う真剣さをもって、働きに召されてまいりましょう。また共にそれに携わる者として、互いへの尊敬をもちながら、共に歩んでまいりましょう。