2020年12月13日アドベント第三主日礼拝説教「待ち望むべきしるし」

 

聖書箇所:イザヤ書7章1~17節

待ち望むべきしるし

 

 まずは、先週の振り返りをしておきましょう。先週は、サムエル記下23章にあるダビデ王の遺言について学びました。死を前にしてダビデ王は、神の約束が自らの死後に実現することに希望を見出しました。その神の約束とは、自らの子孫から真の王が起こされ、彼によってダビデの家は永遠に固く据えられる、という約束です(サムエル下7章)。しかしダビデ王の死後、彼の子孫が治めていた国は南北に分裂してしまいました。南の国が、南ユダ王国でダビデの子孫が王であり続けました。一方北の国は、北イスラエル王国でダビデの血を引かない別の王が立てられました。

 今日の箇所は、ダビデ王の時代から250年ほど後の時代です。このときの南ユダ王国の王はアハズで、北イスラエル王国の王はレマルヤの子ペカでした。またアラムという国も登場します。この国は、北イスラエル王国のさらに北にあった国で、貿易によって栄えていました。この国の王はレツィンでした。2節で、二つの国の同盟の知らせがダビデの家にもたらされます。エフライムは北イスラエル王国を指します。北イスラエル王国とアラムが同盟を組んで、南ユダ王国に今にも攻めてきそうな状況です。国力で言うならば、南ユダ王国よりも北イスラエル王国の方が勝っています。強い国が、貿易で栄えているアラムと同盟を組み、弱小国である南ユダ王国を攻めようとしています。攻められれば、まず勝ち目はありません。だからこそアハズ王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺したのです。

 この状況で、アハズ王のもとに預言者イザヤが息子と共に遣わされます。場所は、上貯水池からの水路の外れです。アハズがいたエルサレムの町にとって、水路は弱点です。ここを破壊されれば、町全体が水不足に陥ります。この弱点を何とかしなければ。そんな思いで、アハズはそこにいたのでありましょう。そしてあれやこれやと忙しくしている彼に、イザヤを通して神が「お落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」と語りかけられます。南ユダ王国に脅威が及ばないことが7節にかけて告げられていきます。そして、8~9節でアハズ王が取るべき行動が改めて示されます。アハズ王が恐れているアラムとエフライムという力を持った二つの国も、それを治めているのはレツィンとレマルヤの子という単なる人に過ぎません。そして神は、それらの国からユダを守るとおっしゃってくださっています。それが実現するまで、落ち着いて静かに待っていなさい。それを信じなければ、あなたがたは確かにされない。神はこうアハズにお求めになります。彼が落ち着いていられるように、しるしを求めよとまで言ってくださるのです。神はただ我慢して待たせるだけのお方ではありません。しるしをお与えくださり、待つことができるよう配慮してくださるお方です。

 神がこれほどまでにアハズ王と南ユダ王国を守ろうとされたのは、決してアハズ王が信仰的だったからではありません(列王記下16章参照)。そうではなく、冒頭に述べたダビデへの約束があったからです。神がこの約束を実現してくださることに信頼するならば、ダビデの家が王である南ユダ王国が滅びることはないのです。このことを、9節の最後で信じることが求められているのです。しかしアハズは、しるしを拒否します。そしてアッシリアという、さらに強い国に助けを求めたのです(列王記下16:7)。彼は、神と神の約束に何の期待もしていなかったのです。そして強さに頼り、強さをひたすらに求めたのです。自分よりも強い者を恐れ、より上の強さをもとめて生きる。これが世の中の一般的な生き方ではないでしょうか。まさに彼は、世を生きるわたしたちの姿です。しるしを拒否したアハズに、神は御自らしるしをお与えになられます。それがかの有名な、インマヌエル預言と呼ばれる14節以降です。インマヌエルとは、「神が共におられる」という意味です。神はこの男の子と共におられます。けれども、一国の王に比べればはるかに無力で弱い存在です。それにもかかわらず、弱さの中にあるこの男の子が成長する前に、二人の王の領土は捨てられるのです(16節)。アハズが恐れ、また一方で求めている強さは、神の弱さの前に全く確かなものではないのです(一コリント1:25)。

 弱さの中にあるこの男の子の成就として、インマヌエルと呼ばれる主イエスキリストはお生まれになりました。家畜小屋での誕生から、十字架の死に至るまで驚くべき弱さの中にある王です。しかしこのお方が、今まで2000年もの間途切れることなく、世界中の教会を王として治め続けておられるのです。この間、大きな力を持った強い国はいくつも起こり、何人もの権力者が誕生しました。それらに比べれば、教会は圧倒的な弱さの中にあります。今でもそうです。しかし最後に滅んだのは常に、強い国や権力者の方でした。弱さの中にある教会は、これからも立てられ続けていくでしょう。これこそが、ダビデに与えられた神の約束が確かであることのしるしです。神が示し続けてくださっているこのしるしに励まされながら、わたしたちは弱さの中で主イエスキリストの到来を待ち続けるのです。

 

 今の世界は、動揺のなかで水路の様子を見にいったアハズ王のようです。自らの弱さにおびえながら、それを隠して強くあろうとし、そのためにより強い者に頼り、ひたすら強さを求める。これが今の世界の姿です。強くないと生きられない。そんな世界で、わたしたちは生きています。だからこそ、教会は弱くていいのです。弱さを認め合いながら、むしろ弱さに大切に向き合う。弱さの中にある人々と共に歩んでいく。それが、弱さの中を歩まれた主イエスキリストに従う教会の姿です。弱さの中を歩まれたわたしたちの王を、このクリスマスに共にお迎えしようではありませんか。