2020年12月6日アドベント第二主日礼拝説教「救いと喜びの芽生え」

 

聖書箇所:サムエル記下23章1~7節

救いと喜びの芽生え

 

 アドベントにおいて、待つということを旧約聖書の御言葉から学んでいます。本日はサムエル記下23章の御言葉を選びました。ここに記されているのはダビデの遺言です。

 ダビデは旧約聖書の主要人物の一人です。新約聖書の一番初めに記されている系図の区切りとして、ダビデが挙げられているほどです(マタイ1:17)。彼は神に召されて油注がれた、神の民イスラエルの王です。彼が他の王と比べて特別であったのは、5節にありますように神が彼に永遠の契約を賜ったためです(サムエル下7:12~13)。この契約に基づいて、後の時代の神の民は、ダビデの子孫から生まれる真の王なる救い主を待ち続けました。新約聖書のいくつかの箇所で、主イエスが「ダビデの子」と呼ばれているのはそのためです。生涯にわたって特別に神に用いられ、死後に至るまで救い主を指し示す名を残した人、それがダビデでありました。

 このダビデの最後の言葉が今日の箇所です。これは彼の語った言葉ではありますが、同時に神が語られた言葉として受け取るべきものです(2,3節)。そこに記されているのは、神の御心に従って治める王に対する輝かしい希望の歌です。3節後半で挙げられている「治める者」は、ダビデ自身のことではなくダビデの子孫である来るべき王のことです。この王が、朝の光や陽の光にたとえられています。これらはいずれも命を育むものです。しかも夜の後、雨の後の光ですから、命のないところから新たに命を生み出すのです。そのような働きを、来るべき王が神の御心に従って人を治めることによってなすのです。この王によって神が共に歩んでくださることによって、ダビデの家は確かに立つのです。そのような永遠の契約を、神はダビデにお与えになりました。この契約の実現のために神がすべてを整えてくださり、守ってくださいます。この契約を神が実現してくださることによって、わたしの救い、わたしの喜びをすべて神は芽生えさせてくださるのです。その過程において悪人は刈り取られ、火で焼き尽くされます。悪人とは、来るべき王に反抗し、神の契約の実現を阻もうとする者です。そういった者たちは、一時栄えたとしても最後には火で焼かれるのです。契約の実現がどれほど厳しい現実に置かれようとも、神は悪人を退けて必ずそれを実現してくださるのです。これが、死の間際に遺言として語ったダビデの希望なのです。

 この遺言を語ったとき、ダビデはどのような気持ちだったでしょうか。特別に神に選ばれて王として歩んできた生涯を振り返り、喜びに心躍らせながら神を讃えてこの遺言を語ったのでしょうか。そうではありません。聖書に記されている彼の生涯は、苦労と失敗の連続でありました。ダビデは王になる前、サウルに命を狙われました。王になると、今度は彼が人妻を横取りして神の厳しい裁きを受けました。そして生後間もない子どもが死ぬという悲しい経験をしました。その後、彼の息子が反乱を起こし逃亡生活を送ることになります。さらにこの遺言が記されたあとの24章には、人口調査をしたダビデの罪とその罰が記されます。そこでサムエル記は終わります。これがサムエル記の描く、ダビデの生涯です。彼は人間的に見れば大変出世した、理想的な歩みをしたかもしれません。しかし人がうらやむような王としての自らの歩みのなかに、彼は希望を見いだせなかったのです。それは苦しみや、悲しみや、自らの失敗による恥に満ちた歩みでした。そのような彼が、自らの死後に神の契約が実現することに希望を置くのです。自らの人間的な希望がすべて崩れ去ったその先に、真の希望が現れる。それがここに記されている希望です。だからこそこの希望は、夜の後の朝の光、雨の後の陽の光なのです。人生での希望が打ち砕かれたその先に、わたしの救い、わたしの喜びを、すべて神は芽生えさせてくださるのです。ここでの「芽生え」とは、切り株から出てくる新芽のことを指します。日本語では「ひこばえ」といいます。立派な木が切り倒され、希望が見いだせない状況になったところに現れる希望こそ、神が実現してくださる真の希望なのです。

 人間誰しも、自らが立派な大木になろうとします。きっとダビデもそうだったでありましょう。しかしそのようなダビデの大木としての人生は、痛みと失敗と恥に満ちたものでした。死を前にして、そこに希望を見出すことはできませんでした。そしてその大木のような人生に、今ピリオドが打たれようとしています。この大木は、切り倒されるのです。しかしそのときにこそ、わたしの救い、わたしの喜びを、神は芽生えさせてくださるのです。ダビデはそのような希望を、神の言葉として語るのです。これはダビデだけでなく、この後の時代に来るべき王である救い主を待ち望んだ人々にとってもそうでした。たとえ目に見える状況が、何の希望をも持てないようなものであったとしても、いやそのときにこそ、神は契約を守り、その契約を実現して、希望を与えてくださる。そう信じて、人々は救い主を待ち続けました。こうして地上に現れたのが、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエス・キリストです。この方が与えてくださる救いと喜びは、大木になろうとするわたしたちの希望や願いの延長線上にあるものではありません。大木として自分で立派に立とうとする自らの思い、自らの願い、自らの希望が切り倒されたその先に芽生える救いであり喜びなのです。

 

 本年は、昨年まで持っていたはずの希望があらゆる面で切り倒された年ではないかと思うのです。そのような今だからこそ、キリストにおいて示された真の希望に、共に目を向けようではありませんか。自らの望みが切り倒されて切り株になったわたしの救い、わたしの喜びを、すべて神が芽生えさせてくださいます。それが聖書に記された神の約束です。