聖書箇所:申命記18章15節、34章1~12節
御言葉と現実のはざまで
本日からアドベント・待降節に入ります。主イエスキリストの御降誕を祝うクリスマスを待つ季節です。今のわたしたちが置かれたこの状況を見ますと、クリスマスを「待つ」ということに特別な意味を感じずにはいられません。そこで待降節の三回の礼拝においては、旧約聖書から救い主の到来を待ち望む根拠となった御言葉に聞いてまいります。
本日は申命記の御言葉です。まず申命記という書物について、お話しします。内容の大半は、モーセが神の民に語った律法の言葉です。出エジプトと荒れ野の40年間を経て、いよいよ神が与えると約束してくださった土地、今のイスラエルの国がある土地に入ろうとしているそのときに、モーセが語った言葉が記されているのが申命記です。ただし、モーセ自身が申命記を書いたわけではないようです。モーセの死の場面が記されているからです。神の民が約束の地に入った後の時代に、モーセの言葉が申命記として整えられたのです。モーセは神の民を導いてきた偉大なリーダーでした。しかし、彼自身は約束の地に入ることができず、ここで死ぬと神からあらかじめ言われておりました。ここから先は、モーセが神の民を導くことはありません。教会でいうならば、牧師辞職のときのようなものです。民は不安だったでしょう。そんな彼らに対して18:15で、神がわたしのような預言者を立ててくださるとモーセは語るのです。
さて申命記の最後、34章になりますと、いよいよモーセが死を迎える場面が記されます。モアブの平野、すなわち死海の東側にあるネボ山すなわちピスガの山頂にモーセは登りました。そこで主は、約束の土地をモーセに見せられました。1~3節にかけて具体的な地名が記されています。北の方から始まり、反時計回りに南へと視線が移っていったことが分かります。そして主はモーセに対して、これが約束の地であると言われます(4節)。渡っていくことのできない土地を、神はあえてモーセに見せられました。ある注解書によると、これは土地を移譲する際の法的な手続きであるようです。土地を移譲する際の法的な手続きの一環として、新しい所有者がその土地を視察することが行われていたようです。モーセがこの土地を見たのも、神がこの手続きに則って確かに約束の土地が与えられることを示されたためだと考えられます。そうしますとモーセは、約束の土地に渡って行くことはできませんけれども、土地を見ることをとおしてこの土地を確かに神から受け取ったことになります。そのような恵みを、神はモーセに死の間際に与えてくださったのです。こうしてモーセは主の御命令どおり、そこで死んで葬られました。彼は百二十歳まで生き、目はかすまず、活力がうせることもありませんでした。彼は最後まで指導者としての働きを全うしました。
モーセの死後、9節でヨシュアが指導者として立てられました。彼は知恵の霊に満ちていました。知恵は神の属性の一つですから、知恵の霊とは神の霊、聖霊のことです。聖霊に満たされたヨシュアに、イスラエルの人々は聞き従いました。この状況を18:15と比べていただきたいのです。9節でヨシュアが立てられた時点では、18:15のモーセの約束がこのヨシュアという人において実現したように見えます。この当時のイスラエルの人々も、そのように理解したでしょう。ところが10節ではすぐさまそれが否定されます。ヨシュアは、モーセのような預言者ではなかったのです。なぜか。約束の地に入った後の神の民は、結局預言者の語る神の言葉に聞き従わず、神から離れてしまったからです。その結果外国からの侵略を受け、約束の地から引き離されて奴隷とされました。結局神の民は、エジプトで奴隷とされていたかつての悲惨な姿に戻ってしまったのです。したがって、ヨシュアはモーセのような預言者ではありませんでした。であるならば18:15で約束されているモーセのような預言者を、神はこれから立ててくださるはずです。そしてこの預言者をとおしてもう一度モーセのように出エジプトの御業が行われ、奴隷として捕らわれている自分たちを神は救い出してくださるはずである。このような思いで神の民は、モーセのような預言者である救い主の到来を待ち続けたのです。モーセの言葉から申命記をまとめた人が「モーセのような預言者は現れたなかった」と書いた理由もここにあります。現れなかったという事実は、これから現れるという希望の言葉でもあるのです。
そして神は、この申命記に記されたモーセのような預言者として主イエスをお送りくださいました。イエスは、ヘブライ語のヨシュアという名前のギリシア語読みの名前です。主イエスこそモーセような預言者、真のヨシュアです。このお方が、クリスマスに世に来てくださいました。そしてまた、いずれ定められたときに再び世に来てくださり、神の国をこの地上において完成してくださるのです。それが聖書に記されている約束です。ですからわたしたちもまた、旧約の民と同じように救い主の到来を待ち続けるのです。神の民が救い主を待つのは、自らの置かれた現実が御言葉の示す状況と離れているからです。わたしたちもまた、奴隷の姿に戻ってしまったかつての神の民と同じように、御言葉とは程遠い状況のなかに置かれています。主イエスを信じる神の民を地の果てからでも集めると、神は聖書で約束してくださっています。しかしわたしたちは今年、地の果てどころか浜松市内にいても、教会の礼拝にすら満足に集まることができませんでした。そのようなときだからこそ、いつも以上に救い主を待ち望む者でありたいのです。御言葉からかけ離れた現実の中でもがき苦しむわたしたちを解放してくださる救い主、主イエスキリストを、神は再び世に来たらせてくださいます。これがアドベントを歩むわたしたちに与えられた、確かな希望です。