2020年11月22日礼拝説教「励ましに満ちた知らせを携えて」

 

聖書箇所:使徒言行録15章22~35節

励ましに満ちた知らせを携えて

 

 今日の箇所は、教会の会議の結論を教会全体に周知する場面です。この部分を、使徒言行録は丁寧に記しています。教会の会議の結果を教会全体にどのように伝えるかという点は、教会が一致して歩むためにとても重要です。今日の御言葉を読みますと、教会の会議に参加していない兄弟姉妹へ、丁寧な配慮のもとに会議の結論が伝えられたことが分かります。教会の会議とその結論の周知を通して、教会がどのように一致し、どのような姿へと導かれていくのでしょうか。今日はそのことを共に学びましょう。

 教会会議の議員であった使徒たちと長老たちは、会議の結果を知らせるためにユダとシラスを選んでアンティオキアに派遣することにしました。アンティオキアは、教会の会議が開かれるきっかけとなった問題が起こった場所です。それゆえに、そこにいる兄弟たちに会議の結論がどうなったかを伝えることが必要でした。そのため、教会のなかでも指導的な立場の人々を送り、さらに手紙を書いて持たせます。この手紙は、こう決まったから従え、という冷たいものではありませんでした。この手紙は23節の挨拶で始まります。また29節の最後には「健康を祈ります」とあります。英語で言うところとの「take care」にあたり、文字通りに健康を祈るというよりも「さようなら」という意味です。挨拶にはじまり「さようなら」で終わる親しい手紙の形式で、異邦人の兄弟たちに呼びかけられています。その内容は、単に決定事項を伝えるだけではありません。そこに至る経緯から丁寧に記されます(24節)。ここには、15章の最初の部分に記されている出来事が要約されています。この場面でユダヤから下って「救いに割礼も必要だ」と主張した人々とは、エルサレム教会に属する人々、おそらくは指導的な立場の人だったようです。彼らが、教会全体として合意したことでないにもかかわらずいろいろなことを言い、アンティオキア教会の兄弟を騒がせ動揺させたのです。「騒がせ動揺させた」というのはかなり強い言葉でして、「あなたがたの魂に恐怖と混乱をもたらした」という意味です。

 このことへの配慮のためにユダとシラスを選び、アンティオキアに戻るバルナバとパウロに同行させる旨が書かれています。アンティオキアで起こった問題を、エルサレム教会でも心痛め、真摯に配慮する姿を感じます。注目したいことは、このことを満場一致で決定したということです。この満場一致という言葉は、皆が心を一つにしていることを示す言葉です。ですから当初「割礼が救いに必要だ」と主張していた人々も、排除されることなくこの結論に合意していたということです。彼らのこの姿勢は、ぜひとも学ぶべきでしょう。教会の中でも時に意見が割れ、議論が起こります。これはあってしかるべきですし、むしろ健全なことです。しかしそれに対する姿勢として教会の一致を保つことができるか、わたしたちの信仰が問われます。

 さて、満場一致で決まったことが28~29節が書き記されていきます。このことを決めたのは、聖霊とわたしたちだと記されています。この会議の結論を得るにあたっては、ペトロの目の前で聖霊が異邦人に降るという、聖霊御自身の明らかな証しが一番の根拠となっています。そのためこのときの会議の結論が、聖霊による決定でもあると言われているのです。このように聖霊に導かれた会議の結論が、ユダとシラスを派遣して手紙を届けさせるという大変丁寧な形でアンティオキアの兄弟たちに伝えられました。それを受け取ったアンティオキア教会の人々は手紙を読み、励ましに満ちた決定を知って喜びました。原文では単に「その励ましについて喜んだ」という意味ですから、彼らが喜んだのは会議の決定だけではありません。手紙に記された挨拶やその他の配慮の言葉、またユダとシラスを派遣したことを含めて、彼らは励まされたのです。さらに預言者でもあるユダとシラスが、手紙の内容に関していろいろと話し、アンティオキア教会の兄弟たちをを励ましました。

 役目を終えたユダとシラスは、兄弟たちからの送別の挨拶をうけてエルサレム教会へと帰っていきました。ユダとシラスが属するエルサレム教会とアンティオキア教会が、場所は違えど共に主を見上げる教会として心ひとつとされたのです。その後アンティオキア教会が、パウロとバルナバに教えられながら主の言葉の福音を皆で告げ知らせました(35節)。教会の会議と、その結論を伝えることをとおして、アンティオキア教会は主の福音を伝える熱心へと導かれたのです。

 教会全体がこのような熱心に導かれることこそ、教会におけるあらゆる会議の目指すところでありましょう。教会の会議である以上、その決定には権威が存在します。けれどもそれは、強制的に従わせて重荷を負わせるためのものではありません。むしろ重荷を取り去って励ますためのものです。それは単なる現状肯定ではありません。わたしたちが、自らのなす業によってではなく、主イエスキリストの十字架による恵みによって救われている。教会会議を通して教会全体がこのことに目を向けることによってこそ、重荷は取り去られ、励まされるのです。使徒たちと長老たちが今日の箇所でいろんな配慮をしたのも、まさにこのことに目を向けるためなのです。

 

 これは教会の会議についての記事ですが、兄弟姉妹とのあらゆる交わりにおいても当てはまることです。わたしたちは、単に仲良しであるために教会に集って兄弟姉妹と交わっているわけではありません。共に主イエスの十字架を見上げ、この恵みによって互いに救われていることを覚え、この恵みを宣べ伝えていく。そのために、わたしたちはこの教会の交わりに加えられたのです。共に主イエスキリストによる救いの恵みに目を向けるために、互いに配慮しあい愛しあう教会であろうではありませんか。