2020年11月8日礼拝説教「何が人を救うのか」

 

聖書箇所:使徒言行録15章1~6節

何が人を救うのか

 

 今日から15章に入ります。この15章が、使徒言行録全体のちょうど真ん中にあります。一つのクライマックスと言ってよいでしょう。そこに書かれているのは、教会の会議です。

 わたしたちは人知を超えた、全能の神を信じています。けれども、会議を通して教会としての進むべき道を模索します。特に改革派教会は、会議を大切にする教会です。大変人間臭い営みのように見えます。けれどもそれは、聖書の理解に基づく営みです。その根拠を与える箇所が、今日の15章になります。その中でも15章の冒頭部分には、教会の会議がなされるきっかけとなった出来事が記されています。ある人々が、ユダヤからアンティオキア教会に下ってきまして、救われるためには割礼が必要だと教えたのです。それゆえにパウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立が生じました。ここで問題になっていることは、「何が人を救うのか」です。救いの根幹に関わることですから、赦しや愛といったことで妥協できない問題す。というよりも、神が与えてくださった赦しや愛を守るための対立です。それはバルナバとパウロにとっても、割礼が必要だと主張した人々にとってもそうです。だからこそ、激しい意見の対立と論争になりました。この論争を解決するために、皆でエルサレムに上って使徒や長老たちと協議することとなりました。かつて1:26では、新しい使徒の選出を神に任せてくじで決めました。しかしこのときはもう、教会の主だった人々による会議によって教会の進むべき道を見出していく時代となったのです。それほどまでに大きな権限を、教会は神から委ねられているのです。なぜなら教会は、神の御子キリストの体だからです。3節には、エルサレムに向かう人々が、途中のフェニキアとサマリアで兄弟たちに異邦人が改宗した次第を話したことが記されています。フェニキアとサマリアへの伝道は、割礼を受けているユダヤ人が主な対象でした(11:18)。従いまして、3節で異邦人の改宗を喜んでいるのは、割礼を受けている人々です。割礼を受けている兄弟たちが、割礼をうけていない異邦人の救いを喜ぶ姿に励まされて、彼らは4節でエルサレムの使徒たちと長老たちに自分たちの証しをしました。教会の進むべき道は会議によって見出されていくのですが、それは参加者の一方的な思いによって決められるものではないのです。そこに参加していない兄弟姉妹の思いを汲み取ってなされていくものなのです。

 具体的な会議については、次回以降に学んでまいります。今日の箇所では、割礼が救いに必要だと主張された背景についてお話します。割礼とは、神の民のご先祖であるアブラハムに神が命じられたことです(創世記17章)。この割礼の命令が記されている旧約聖書を、キリスト教会も神の言葉として受け入れています。ですから、旧約聖書に記されている割礼が救いに必要と主張する人々の意見は、筋が通っているように見えるかもしれません。しかし旧約聖書自身は、割礼を救いの条件とはみていません(例えばイザヤ書56章3~7節)。旧約時代から一貫して、人は(異邦人や宦官も含めて)信仰によって救われるのです。しかし時代が下るにしたがって、旧約聖書の教えが変質し、あたかも割礼を受けることや律法を守ることが救いの条件のごとく強調されていきました。それが「割礼を受けなければ救われない」と主張する人々が教会の中に登場した背景です。

 本来の旧約聖書の教えがこのように変質した原因を、新約時代の時代背景の面から触れておきます。この時代は、社会全体がヘレニズムの考え方に基づいて回っていました。そのようなヘレニズムの考え方からすると、割礼を受けている人々は恥ずかしい人々・古臭い人々と見なされていました。割礼を受けている人々は、それだけで周りの人々から白い目で見られていました。おそらく、実社会においても様々な不利益を被っていたと思われます。先に教会に結ばれていた人々は皆割礼を受けていましたから、そういった苦難に耐えながら信仰生活を送っていました。そこに、割礼を受けていない異邦人が教会に入ってきました。割礼を受けていない信者は、周囲から白い目で見られることも不利益を被ることもありません。そんな人々に対して、「割礼を受けなければ救われない」と主張されたのです。要は、そんな軟弱なことではダメなんだ、ということでしょう。自分たちのように割礼を受けて、神のためにあえて周囲から白い目で見られたり不利益を耐えたりしなければ本物の信仰者ではない、というわけです。

 

 このように、苦しむことや我慢することが信仰生活の主目的になってしまうことがあるのです。これが、本来の聖書の教えが変質してしまう一つの原因でありましょう。割礼を受けなければ救われないと主張していた人々は、まさにこれなのです。事実、割礼のことが軛(10節)や重荷(28節)と言われています。信じるだけでなく、軛や重荷を負ってこそ救われる。これが割礼を主張した人々の心の中にあったことです。しかし旧約の時代から新約の時代を経て、今に至るまで、神は変わることなく一貫しておられます。神は、信じる者を救ってくださるのです。もちろんこの信仰を守るために、わたしたちが苦しむこと我慢することはあるでしょう。しかしそれは、決して救いの条件ではありません。だからこそ、すでに救われたわたしたちが兄弟姉妹や自分自身に対して、苦しんで我慢しなければ救われないかのような重荷を負わせてはならないのです。主イエスはわたしたちに重荷を負わせるためではなく、重荷を取り去るために来てくださいました(マタイ11:28~30)。主イエスによってわたしたちの重荷が取り去られたことを心から喜ぶこと。それこそ、わたしたちが第一に受けるべき救いの恵みなのです。