2020年10月25日宗教改革記念礼拝説教「あなたたちは主の祭司と呼ばれる」

 

聖書箇所:イザヤ書61章1~11節

あなたたちは主の祭司と呼ばれる

 

 本日は宗教改革を記念して礼拝を守ります。宗教改革者ルターが当時のローマカトリック教会に対して主張したことの一つが「万人祭司」です。今日はこの万人祭司について取りあげてまいりましょう。

 祭司の働きは、神と民との間に立つことです。旧約時代において、民の代表として神にいけいにえを捧げるのは祭司の役割でした。彼らはまた、神の代理として民に神の御言葉を教え、御言葉に基づいて裁判官の役割も果たしました。旧約時代の特に前半においては、神の民イスラエルは祭司の働きを通じて神とのつながりを維持していました。この祭司の働きを聖職者のみが担うと、中世の時代では理解されていました。問題なのは、この理解からから聖職者とそれ以外の信徒を上下関係で理解する傾向が生まれたことです。そのことへの批判として、宗教改革者ルターは万人祭司を主張しました。聖職者のような教会内の一部の特別な人だけが祭司なのではなく、すべての信徒が祭司なのだ、という教えです。これが宗教改革の一つの柱となりまして、プロテスタント教会の共通理解となりました。もちろんわたしたちの教会もこの万人祭司の考え方を取っています。牧師のわたしだけでなく、ここにいるおひとりおひとりが主の祭司なのです。

 この万人祭司の理解の根拠となる御言葉の一つが、今日のイザヤ書61章6節です。ここで「あなたたちは主の祭司と呼ばれる」と言われています。あなたたちは例外なく、全員が、主の祭司と呼ばれると約束されています。では「あなたたち」とは一体誰でしょうか。それは貧しい人であり、打ち砕かれた心の人であり、捕らわれている人であり、つながれている人です(1節)。これらの言葉が直接的に指すのは、バビロン捕囚によって異国に連れてこられた神の民です。彼らはかつて、エルサレムを中心とした約束の地で、神に仕えていました。このときは、彼らの中の一部の人々が祭司となり、この人々が神と民との間に立って働きをしていました。しかし、強大な力を持つ他国の侵略によって町々は廃墟となりました。こうして神の民は心が打ち砕かれ、体は捕らえられ、異国の地につながれたのです。そのような絶望の淵にいた神の民に対する回復の約束が61章に記されるのです。単なる元通りの回復ではありません。今度は、一部の人たちだけでなくあなたたち全員が主の祭司と呼ばれるほどの栄光ある姿への回復です。以前よりももっと素晴らしい姿へと変えられるのです。この言葉が、主イエスキリストによって実現することになります(ルカ4:16〜21)。

 ところで神の民はなぜ、神の民でありながら他国に連れていかれ、そこにつながれたのでしょうか。それは神の民である彼らが、真の神を離れて生きたからです。3節を見ますと、彼らは「正義の樫の木と呼ばれる」とあります。正義の樫の木があるということは、正義ではない樫の木もあるということです。樫の木は、彼らがかつて拝んでいた偶像の一つです(1:29)。かつてはそんな樫の木を拝んでいた彼らが、神の御心にかなう正義の樫の木と呼ばれるほどに回復されると神は約束してくださっています。大変嬉しい知らせ、まさに福音です。けれども彼らは、自分たちが「正義の樫の木」と呼ばれるたびに、かつて樫の木の拝んでいた自分たちの姿を思い起こすでしょう。自分たちは神を離れて、なんと馬鹿なことをしていたのかと。自分たちは、とても神の御前に相応しくないことを思わずにはいられないでありましょう。しかし、神はこのような人々を御自身の祭司とされるのです。神が祭司に任命されるのは、自らの罪の故に神から引き離されて、それ故に心底苦しんでいる人々です。しかもそのことを、ちゃんと神に向かって嘆いている人々です。このような人々が、主の祭司とされるのです。

 異国の地に連れていかれた神の民は、そこで開き直ることもできたはずです。人生こんなものだ。神なんて、しょせんこんなものだ。自分なんて、しょせんこの程度のものだ、と。しかし異国の地に連れてこられた神の民は違いました。彼らは暗い心で、灰をかぶって、主よなぜですか、と神に向かって嘆いていました。そんな神の民に、神は冠をかぶらせ、喜びの香油を注ぎ、賛美の衣をまとわせられます。そして彼らに、一番いい服を着せてくださるのです。このようして、おまえたちをわたしの祭司とすると、神は約束してくださったのです。この約束の実現を、前述のルカ4章において主イエスが宣言されたのです。わたしたちももまた、彼らと同じように主の祭司とされました。誰も主の祭司には相応しくないにもかかわらず、神はただ、十字架の恵みによってわたしたちを祭司としてくださったのです。これが「万人祭司」の教えの中心です。ですからもし、教会の中の一部の立派な聖職者だけが主の祭司なのだと理解するならば、それは神の恵みの御業に反しています。これが宗教改革において、ルターが万人祭司を強く主張した理由なのです。

 

 ところで祭司は、神と民との間に立つ働きをする人であるということは冒頭に申しました。祭司とされたわたしたちは、神と「誰」との間に立つのでしょうか。今日の御言葉から挙げるならば、「他国の人々」や「異邦の人々」(5節)、「諸国の民」(9節)です。すなわち、まだ真の神を知らずに苦しみ、世の中の現実の中で開き直って生きるしかない人々です。このような人々と、神との間に、わたしたちは立つのです。そして彼らに、主イエスキリストによって実現した喜びの知らせを伝えるのです。この働きは、神なき歩みの苦しみを知っている者こそが、担うことができるのです。ですから、立派な信仰者としてではなく、驚くべき恵みによって救われて祭司とされた者として、共にこの働きをなしてまいりましょう。これこそ、宗教改革の柱の一つである万人祭司の教えなのです。