2020年10月11日礼拝説教「人間ではなく神」

 

聖書箇所:使徒言行録14章8~18節

人間ではなく神

 

 バルナバとパウロの宣教旅行によって、各町に多くの回心者が与えられました。しかし多くの回心者が与えられるほどに、反対活動も激しくなっていきました。好ましく見える出来事であっても、良い面ばかりではありません。よく見えた出来事が、難しい状況を生むことがあるのです。今日の御言葉はまさにその典型でありましょう。

 今日の箇所でパウロは、生まれつき足の不自由な人をいやします。もちろんそれは、パウロ自身の力ではなく神の御業が現れた結果です。そしてそれを見た周りの人々は、驚き熱狂しました。人々が神の御業に驚き、心燃やされ熱狂する。これ自体は、大変良いことのように見えます。しかしそれが11節以降で難しい状況をもたらしていきます。癒しの奇跡を見た人々は、この地方の言葉で「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言いいました。外見は人間の姿をしているが、中身は神だと言いだしたのです。バルナバが呼ばれた「ゼウス」とは、ギリシャの神々の最高神です。そしてパウロが呼ばれた「ヘルメス」とは、ゼウスの使いであり旅人の神あるいは情報の神として崇められていました。それらの神々が現れたと人々が思ったわけですから、町の外にあったゼウスの神殿の祭司が家の門の所まで献げ物を携えやって来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとしました。人々はリカオニアの方言で話しており、バルナバとパウロはその言葉を理解できませんでした。こんな状況になっているということを聞いて、彼らははじめて事の重大さに気がついたのです。

 使徒であるバルナバとパウロは、このことを聞くと服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫びました(14~15節)。服を裂くほどの激しい嘆きのなかで、誤解を解くために激しく行動します。「あなたがたと同じ人間にすぎません」という言葉で、自分たちは外見だけでなく中身もあなたがたと同じなんだと叫んでいるわけです。使徒たちと周りの人々が違うのは、真の神の福音を告げ知らせている者か、それを受け取るべき者かという点です。人間の性質としてはまったく同じであり、人間的に何か優れた点があるというわけではないのです。現代のわたしたちについても同じことが言えるでしょう。使徒という役職はもうありませんが、例えば信者と未信者を比べても、そこに人間的な優劣はないのです。まして教会内の牧師と信徒、役員とそれ以外の方々については、言うまでもないでしょう。

 さて、話を戻しましょう。バルナバとパウロは、福音を告げ知らせていたがゆえに使徒でありました。彼らは人々がこのような偶像を離れて生ける神に立ち帰るために福音を告げ知らせていました。なお「このような偶像」とありますが、もともとの言葉は「これらの空しいこと」です。単に偶像の神を拝むということに留まりません。優れた人間を神のごとく崇めようとすること。これこそ、人々のなしていた「空しいこと」なのです。そのような生き方から、真の神を神とする生き方に立ち帰らせるのが福音です。この福音を実現してくださった神がどのようなお方であるかが、15節の後半から述べられます。まずこの神は、世界を造られた創造の神です。さらに17節には、恵みをくださり、心も体も満たしてくださる神でもあることが示されます。それゆえに、この神は全人類に関係し、すべての人がこの神を知って感謝をささげるべきです。ただ、事実としてリストラの人々や彼らの先祖は真の神を知りませんでした。過ぎ去った時代においては、神の許容があったのです(16節)。ただそれは、あくまでも過ぎ去った時代においてです。なぜなら今や、福音の中心である主イエス・キリストが世に来られたからです。ですから、いまこそそのような空しい生き方を変え、恵みを注いでくださる神に立ち帰るときなのだと、パウロはそのように叫んだのです。

 ここまでいろいろと説明して、バルナバとサウロは群衆が自分たちにいけにえをささげようとするのをやっとやめさせることができました。やっとやめさせる、というのは大変強い禁止の言葉です。人を神のごとく崇めようとしたのですから、やめさせるべきなのは当然です。しかし同じような状況が、もっと分かりにくい形でわたしたちの身にも起こり得るのです。なぜなら、主イエスを信じる者が語る神の言葉には、人を立ち上がらせる力があるからです。その力は、いとも簡単に神ではなく人の力として誤解されるのです。それは、すばらしい実績を残した方についてだけ警戒すべきなのではありません。例えば、誰かのためになした小さなことで、落ち込んでいた人が笑顔になり感謝されたとしましょう。そんな小さな成果をも、それをなした自分や誰かの功績にし、わたしたちは小さな神を作り上げてしまうのです。それはバルナバとサウロが服を裂くほどの嘆くべきことであり、強くやめさせるべきことです。思い出していただきたいのです。リストラの人々のむなしい行動とは、能力のある人を神のごとく奉ることでした。無意識でいたら、わたしたち自身も簡単に陥ってしまう生き方なのです。だからこそ意識的にその生き方から離れて、すべてを神の御業とすることが大切です。

 神は今も、人を救うためにあらゆる御業を行ってくださっています。この神の御業は、わたしたちの行動を無視して自動的に示されるものではありません。では一体どのようにして、神の御業が空しいことに満ちているこの世界に示されていくのでしょうか。それは、人々がわたしたちを賞賛したとしても、それをただ神の御業であるとわたしたちが強く指し示していくことによってではないでしょうか。人間ではなく神。わたしたちがこの生き方を意識的に、強く意志を持ってなしていくときに、人を救う神の力である主イエスの十字架と復活は、この世界の人々に示されていくのです。