2020年10月4日礼拝説教「恵みの言葉を証しされる神」

 

聖書箇所:使徒言行録14章1~7節

恵みの言葉を証しされる神

 

 本日は、アンティオキアからイコニオンにやってきたパウロとバルナバについて記した箇所です。二人はイコニオンでもユダヤ人の会堂に入って話をしました。その結果、大勢のユダヤ人とギリシア人が信仰に入りました。すると、それに反抗する人々も出てきました。信じようとしないユダヤ人たちは異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせました。パウロはこのときの苦労を、二テモテ3章11節で振り返っています。相当な困難に直面したことが伺えます。このような状況のなかでなお二人は、そこに長く留まりました。この行動は、アンティオキアのときとは違っていました。13章の最後を見ますと、ユダヤ人たちが人々を扇動してパウロとバルナバを迫害させますと、二人は足の塵を払い落としてさっさとイコニオンに去っていくのです。イコニオンでも同じような状況に置かれたのですが、彼らは長くそこに滞在し、粘り強く宣教活動をしました。これは状況の違いから来るものと考えられます。アンティオキアの兄弟たちは、二人が出発してもなお困難な状況のなかで聖霊と喜びに満たされていました。兄弟たちの信仰はある程度確立され、迫害に耐える力を持っていました。それならば、二人は新しい場所で宣教をしたほうが実りは大きいのです。ではイコニオンではどうだったのでしょうか。このことは直接記されてはいませんが、3節の最初にある「それでも」という接続詞がヒントになります。この言葉は、素直に訳すと「それゆえに」という意味になります(NIVやNRSV等の英語訳の聖書参照)。異邦人たちが兄弟たちに悪意を抱いたがゆえに、二人は長くそこに滞在したのです。イコニオンの兄弟たちは、困難な状況のなかでまだパウロとバルナバの支えが必要でした。だから二人はそこに長く留まったのです。このようにして長くイコニオンに留まったパウロとバルナバは、主を頼みとして勇敢に語りました。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされました。ここでの働きの主語は、どこまでも「主」です。さらに言うならば主イエス・キリストです。主イエス御自身が、恵みの言葉を証しされます。それが単なるうわべだけの言葉ではなく実際的な力を持つ言葉であることが、しるしと不思議な業によって示されたのです。こうしてついに町の人々が分裂するまでに至ります(4節)。大変な事態がここで起こっています。けれども見方を変えれば、町を二分できるほど主イエスを信じる者たちの信仰が整えられたということができます。ここに、イコニオンに長く滞在したパウロとバルナバの宣教の大きな実りを見ることができるでしょう。

 さてこのような状況の中で、異邦人とユダヤ人は指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしました(5節)。ただ、彼らはまだ二人に対してこの行動を起こしてはいませんでした。しかし二人は、彼らの思いを敏感に察知します。そして実際に事が起こる前から早々に近隣の町に難を避け、そこでも福音を告げ知らせました。イコニオンの兄弟たちの信仰は、町を二分できるほどに整えられたわけですから、ここに留まるよりも近隣の町に難を逃れて宣教した方が実りが大きいと判断したのでありましょう。そのために二人は大変機敏に行動しました。

 今日の箇所のパウロとバルナバの宣教活動を見ますと、悪意を抱かれながらもイコニオンに長期滞在する「粘り強さ」と、長く留まった地から早々に出発する「機敏さ」の両方を見ることができます。それらは、彼らは冷静かつ純粋に、福音を宣べ伝えるために最もよいと思われる道を選択し続けた結果です。そしてその根底にあったのは、自分たちをとおして「主が」働いてくださっている、という確信でした。ここでもし仮に、「自分が」働いていると彼らが思っていたらどうでしょうか。2節で悪意を向けられたとき、宣教の失敗を恐れて逃げ出したくなるでしょう。また5節で自分たちに何か危険が及びそうだと感じた時には、なおイコニオンに留まりたいと思ったでしょう。なぜならイコニオンでの宣教は大成功を収めていたからです。働きの主語が「主が」ではなく「自分が」になると、失敗への恐れと成功への執着から、粘り強さも機敏さも失われるのです。

 

 さて、ここでわたしたち自身を振り返りたいのです。失敗への恐れから、主に仕えることに伴う困難を避けてはいないでしょうか。成功への執着から、現状に留まろうとしてはいないでしょうか。わたしたちがこのような思いになるのは、働きの主語が「自分が」になっているからです。主語の転換が必要です。あらゆることは、わたしが働いて成し遂げたのではありません。わたしをとおして「主が」働いてくださった結果なのです。ある先生が「主に頼るとき、わたしたちには失敗する自由が与えられる」とおっしゃられていました。主がわたしたちをとおして働いてくださっているならば、もはやわたしたちは失敗や成功という結果にとらわれる必要はありません。パウロとバルナバのように、冷静かつ純粋に「主のために最もよい道を選択する」だけでよいのです。わたしたちがこの選択をするならば、それが失敗で終わることはありえません。なぜならわたしたちを通して働いてくださるのは、十字架と復活において完全な贖いを成し遂げてくださった主イエスキリストだからです。もちろん、やることなすことすべてがうまくいくのではありません。しかし失敗に見えることをも用いて、主イエス・キリストは救いの御業をなしてくださいます。この信頼の中で、信仰者としても教会としても歩んで参りたいのです。困難を前にしても粘り強く、かつ変化には機敏に主に仕えてまいりましょう。「主のために最もよい道を選択する」。この選択において、もはやわたしたちが神の御前に失敗を恐れる必要はないのです。