2020年9月20日礼拝説教「約束される神」

 

聖書箇所:創世記15章1~21節

約束される神

 

 創世記はこの15章において一つのクライマックスを迎えます。ここで主なる神がアブラムと契約を結ばれます。このことが、新約聖書においてパウロが主張する信仰義認の教えの根拠となります。ではわたしたちを救う信仰とは何でしょうか。世の中のことは全部横において、何の葛藤を感じることもなく神の言葉を素直に受け入れることなのでしょうか。1節で神がアブラムに語られたとき、彼は素直に神の言葉を受け入れたわけではありませんでした。その理由は「報い」にあります。この言葉が指すのは、土地です。それはアブラムだけに与えられれば済むものではなく、子孫たちにそれが受け継がれていくことが前提です。これが神が約束してくださっている「報い」です。しかしアブラムには子供が与えられていません。すでにアブラム夫婦は高齢で、子どもが望めない状況でした。僕が家を継ぐことになっています。とても神の約束の実現を望めない、厳しい現実がありました。それゆえにアブラムは、2~3節で神に訴えます。真剣に神の約束が実現することを信じるからこそ、問わずにはいられないのです。なぜ、いまわたしはこんな状況に置かれているのか、と。この問いかけを、神は決してお叱りにならず、むしろ肯定的に受け止めて、アブラムにお応えくださいました(5節)。言葉だけではなく、星という目に見えるしるしをとおして、神は自らの約束が実現した姿をアブラムに示されました。ただ、いくら空にたくさんの星があったとしても、それらは子がないというアブラムの悩みの解決を保証してくれるものではありません。けれどもアブラムは、主を信じたのです。目の前の状況は、何一つ変わっていません。常識的に考えれば、約束の実現は絶望的としか思えません。それでも最後には神が約束を、この目に見える現実世界において実現してくださる。アブラムは現状に葛藤しつつも、神の約束に期待したのです。そんな彼を神は「お前は正しい」と認めてくださいました。

 このように神に義と認められたアブラムですが、8節で「この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか」と主に尋ねます。子がないというアブラムの置かれた厳しい状況は、何も変わっていないからです。主は三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛を持って来るようお命じになりました。アブラムはそれらを持ってきて、鳥以外の動物を真っ二つに切り裂きました。そしてそれぞれを向かい合わせて置きました。これは当時の契約を結ぶ際の儀式です(エレミヤ34:18~19参照)。当事者が二つに割かれた動物の間をとおることによって、契約が結ばれます。17節で、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間をとおりすぎました。煙と火は、主なる神のご臨在を示しています。神御自身が契約の当事者となって、約束の実現をアブラムに保証してくださったのです。ところでアブラムは、動物の間を通った記載はありません。なぜならこの契約における義務は、神の側にのみあるからです。まさに恵みの契約なのです。しかしこの契約において、アブラムは何もしなかったわけではありません。彼は、動物の死体を狙うはげ鷹を追い払いました。神が与えてくださる契約を奪い去ろうとするものから、彼はこの契約を守ったのです。事実この契約はすんなりと実現することはないと、神はアブラムに予告されます(13~16節)。約束の実現まで四百年という単位の時間が必要です。どれほど苦しい状況に置かれたとしても、約束の実現を待つということが必要です。約束の実現を疑いたくなるような現実から、神の契約を守ること。そのなかで約束の実現を待ち望み、神に期待し続けること。これが契約の実現においてアブラムに求められたことなのです。

 

 わたしたちには、主イエスキリストによって神の約束が与えられています。それは主イエスが復活されたようにわたしたちもまた復活をするという約束であり、主イエスが再び来られてこの世界が完成するという約束です。神は、わたしたちにハッピーエンドを約束してくださっています。ただ、わたしたちの置かれた現実は、それとはほどとおい状況ではないでしょうか。皆さんお一人お一人に、神の約束の実現を疑ってしまうような現実があるのです。信仰とは、こういった現実をすべて無視して文句も言わずに受け入れることではありません。世の中の葛藤の中で神に叫びをあげながら、それでも神が約束を実現してくださることに信頼し期待し続けること。神が、この地上において約束を実現してくださるのを待ち続けること。これがわたしたちに求められている信仰なのです。これは決して簡単なことではありません。わたし自身厳しい現実を前にして、神に期待し続けることの難しさを覚える時があります。そのようななかでなお、わたしたちが信仰を持ち続けて生きるための原動力は、すでに信仰に生きた先人がいるということだと思うのです。アブラムもその一人です。彼はときに失敗しながらも、子がないという苦しい現実に苦悩し、その葛藤の中で神の約束を望みながら生き、そしてその希望のなかで死んでいったのです。そのなかで神はアブラムに子を与え、御自身の約束を実現してくださいました。この姿を見るときに、わたしたちにも葛藤の中でなお神の約束に望みをおく力が与えられるのです。アブラムだけでなく、信仰の先輩方が教会に与えられていることも教会にとって大きな恵みです。いろんな苦労を経て来られた信仰の先輩方が、今なお主イエスを信じ、神を喜んで信仰生活を歩んでくださっている。これこそこの地上において神が恵みの約束を実現してくださる何よりの証拠です。この証拠に励まされながら、主イエスの十字架に示された神の約束に、共に期待し続けたいのです。常識的には望みようのない復活の希望を、そして世の完成を、神の約束として期待し続けること。これこそわたしたちを救う信仰です。