2020年9月13日礼拝説教「拒む者と受け入れる者」

 

聖書箇所:使徒言行録13章42~52節

拒む者と受け入れる者

 

 今日の箇所には、パウロの説教を聞いた二種類の人々が登場します。旧約聖書を受け入れ、割礼も受けていた「ユダヤ人」と、旧約聖書を信じてユダヤ教に改宗したけれどもまだ割礼を受けていない「神をあがめる改宗者」です。この二種類の人々が、パウロの語った内容について全く異なる二種類の反応を起こすことになります。これは決して、信者と未信者の反応の違いではありません。どちらも聖書を信じている信仰者です。共に聖書を信じていながら、なぜこのような対立が起こったのか。そこにはどのような違いがあったのか。そのことを今日のところから見てまいりましょう。

 まずはパウロの説教の中心は、旧約聖書に従って主イエスキリストが救い主として世に来られた、ということです。このことが26節において「この救いの言葉」と表現されています。このパウロが語ったこの救いの言葉が、今日の箇所では「主の言葉」や「神の言葉」に対応します。これらは単純に聖書に記されている文字のことではなく、パウロが説教で語った救いの言葉であり、何よりも聖書に示された主イエス・キリストのことなのです。この言葉を聞いた人々ははじめ、ユダヤ人も神をあがめる改宗者も関係なくそれを受け入れたように見えます。次の安息日、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして会堂に集まってきました。宣教の結果としては大成功と言えます。しかしそれを見たユダヤ人は、ひどくねたんだのです。なぜユダヤ人はねたんだのでしょうか。彼らは会堂において中心となって奉仕をし、会堂を支えていた人々だったでしょう。しかしそんな自分たちの言葉ではなく、いきなりやってきたパウロとバルナバの言葉を聞こうと、人々が大挙して押し寄せました。そのため彼らはパウロとバルナバをねたんだのでしょう。彼らは口汚くののしり、パウロの話すことに反対しました。「パウロの話すこと」とは、救いの言葉であり、主イエス・キリストです。ですから、結局ユダヤ人は主イエスをののしり、主イエスに反対したのです。

 そんな彼らに、パウロとバルナバは勇敢に語ります。神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした、と。旧約聖書の信仰の中心を担う彼らこそ、旧約聖書に従って主イエスが来られた知らせを真っ先に聞く優先権がありました。しかし彼らは、ねたみのために主イエスを拒否しました。これは41節にある「滅びに定められた者は、主イエスを信じることができない」という預言の成就です。パウロに反対したユダヤ人は、自らの言動によって自分たちが永遠の命を得るに値せず、滅びに定められた者であることを自ら証明してしまったのです。そんな彼らに対してパウロは「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言します。パウロは今後一切ユダヤ人に宣教しないのではありません。ただ、今後もパウロがユダヤ人に拒否され、それゆえに異邦人の方に行き、異邦人たちが主イエスを受け入れることが続くのです。こうゆうことが繰り返されて、結果的に地の果てにまで救いがもたらされていくことが神の御計画なんだと、47節で旧約聖書の御言葉を引用しながらパウロは語ったのです。異邦人たちはパウロのこの言葉を聞いて喜び、主の言葉を(すなわち主イエスを)賛美しました。こうして永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入りました。わたしたちの救い主として主イエスが来られたという神の言葉が語られたときに、ねたみに燃えてそれに反対するか、それともその知らせを心から喜んで受け入れるか。これは人がなす一つの決断です。この決断によって、その人が永遠の命に定められているのか否かという神の御計画が明らかになるのです。救いも滅びも神の御計画で定められているとはいえ、わたしたちは自らの決断の責任を問われるのです。そして救いの言葉を喜び賛美した異邦人たちによって、主の言葉はアンティオキアの町だけでなくその地方全体に広まっていきました。しかし実りが大きくなればなるほど、ユダヤ人の反対も激しくなりました。パウロとバルナバは、足の塵を払い落としてイコニオンに去っていきます。しかし、そのような状況にあってなお、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていました。聖霊に満たされなければ、神の言葉を喜ぶことはできませんから、聖霊と喜びは一体です。彼らは 困難な状況の中にあってなお、聖霊の働きによって神の御言葉を喜んでいたのです。

 パウロに反対したユダヤ人と、受け入れた異邦人。この違いを生んだのは、神の言葉である主イエスを純粋に喜ぶことができたか否かでありましょう。ここに信仰者として最も大切なことがあるのです。今年に入ってから、コロナをはじめとして本当にいろいろなことを考えなければならない状況に置かれています。普段の生活においても、そして教会の礼拝や活動においても、様々な制約があります。信仰者であるわたしたちは、何のためにそれをしているのでしょうか。感染しないことが、わたしたちの究極の目的ではありません。すべては感染におびえることなく、御言葉を喜ぶためです。兄弟姉妹と共に、心から主イエスを喜ぶためです。これこそ、わたしたちが今最も大切にすべきことです。だからこそ、今置かれたそれぞれの状況のなかで、御言葉を喜ぼうではありませんか。ルカ10:38以下において主イエスは、様々な心配事に心を乱しているマルタにこのようにおっしゃいました。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

 

様々なことに悩まなければならない今だからこそ、わたしたちに必要なただ一つのことを覚えたいのです。それは、御言葉に示された救い主、主イエスキリストが与えられたことを心から喜ぶことです。