聖書箇所:使徒言行録13章26~41節
救いの言葉はわたしたちに送られた
宣教旅行をしていたパウロとバルナバは、ピシディア州のアンティオキアという町にやってきました。彼らは安息日にこの町のユダヤ教の会堂に入り、そこに集められているユダヤ教の信仰者たちに対してパウロが説教をします(16~41節)。ユダヤ教の会堂と言いましたが、この時代はまだキリスト教とユダヤ教は分かれていません。主イエス・キリストが現れたあと、この方を救い主と信じるか否かで、キリスト教とユダヤ教徒が分かれていったのです。パウロの説教の聴衆は、主イエスの到来を知らず、素朴に旧約聖書を信じ、救い主が来ることを待ち望んでいた人々です。彼らに対してペトロは、「この救いの言葉はわたしたちに送られました」と呼びかけます。救いの言葉とは、救い主として主イエスキリストが世に来られた知らせです。主イエス御自身が、救いの言葉と言ってもよいでしょう。これは単なる喜びの知らせではありません。それを聞く者に、主イエスを救い主として認めるか否かの選択を迫る言葉でもあります。このように、人々に選択を迫るこの救いの言葉として来られたのが、主イエスなのです。このお方は、まずエルサレムに住む人々やその指導者たちに送られました。彼らもまた旧約聖書を信じ、毎週その言葉に聞いていた人々です。それにもかかわらず、その聖書の言葉を理解せず、聖書に示されたとおりに来られた主イエスを拒否しました。そして死にあたる理由は何も見いだせなかったにもかかわらず、ピラトに求めて主イエスを十字架につけたのです。
彼らは主イエスを救い主とは認めない道を選択しました。しかし主イエスを認めなかった彼らの行動によって、結果的に聖書の言葉が実現することとなりました。なぜなら旧約聖書に示された救い主は、民の背きの身代わりに咎を受ける方だからです(イザヤ53:5)。また旧約聖書は、救い主を「起こす」とか「立てる」と記しています。これらは復活の意味を含む言葉です。まとめると、民の身代わりに咎をうけ、死から復活される方が旧約聖書に示された救い主像なのです。主イエスはエルサレムに住む人々やその指導者たちから拒否されることによって、何の罪もないのに十字架に架けられ、復活されました。皮肉なことに、彼らが主イエスを拒否して十字架につけたことによって、救い主について旧約聖書に書かれていることがそのまま主イエスの身に実現したのです。この復活の出来事は決して作り話ではなく、確かな事実であることが31節から語られていきます。復活された主イエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その姿を見た彼らもまた、パウロと同じように主イエスの証人となっています。この多くの証人たちが、主イエスが復活されたことの証拠です。主イエスが復活されたことが事実ならば、この方が旧約聖書に記された救い主だということになるのです。パウロが主イエスの復活についてもう一つ強調していることは、主イエスは死してなお朽ち果てなかったということです。そのことが、旧約聖書を引用しながら説明されています。ここで引用されている箇所はいずれも、ダビデ王との関連で記されている言葉です。ダビデ王自身は死んで葬られ、朽ち果てました(36節)。しかしダビデの子孫としてお生まれになった主イエスを神は復活させ、朽ち果てるままにしておかれませんでした。ダビデ王に関連して言われていた「朽ち果てない」という約束が、ダビデの子孫である主イエスの身に実現しました。これもまた、主イエスが旧約聖書に示された救い主であることの証拠です。
このことの結論が38~39節です。長い文章ですが、強調点があります。それは二度登場する「この方」という言葉です。この方による罪の赦しが告げ知らされている。また信じる者は皆、この方によって義とされる。ここに罪人であるすべての人が神と和解し、神と共に生き続けるための唯一の道が示されたのです。これこそパウロが宣べ伝えている救いの言葉です。この救いの言葉は、冒頭にも申しましたように主イエスを救い主と認めるか否かの選択を迫る言葉です。それゆえに、40~41節の警告の言葉で説教が締めくくられています。これはハバクク1:5の引用の言葉です。驚くべき神の御業について、人がどれほどそのことについて詳しく説明しようとしても、信じられない人々がいるのです。滅びに定められている者は、神の救いの御業を信じることができないのです。この預言が、あなたたちに当てはまることがないようにと、パウロは警告しています。これは裏を返せば、主イエスの十字架と復活こそ神の救いの御業であり、滅びをまぬかれる確かな道であるということでもあります。復活の主イエスこそ、死してなお朽ち果てて滅び去ることのない真の希望なのです。
滅びに定められた人々は、この滅び去ることのない主イエスを信じることができず、いつか朽ち果てる希望しか持つことはできません。この生き方そのものが、大変不幸ではないでしょうか。その一方で、主イエスを信じ、朽ち果てることのない希望の中に生きる道もまた開かれています。あなたはどちらの道を進むのか。救いの言葉が送られるとき、この選択を迫られるのです。もちろんキリスト者は、後者の道を選んだのです。しかし、主イエスを信じていると口ではいいながら、事実上主イエスではない朽ち果てる希望に生きているのではないでしょうか。だからこそ、救いの言葉である主イエスの前に立たされ続ける者でありたいのです。コロナ禍のなかで、人々の希望が大きく揺れ動いています。そんな今こそ、朽ち果てることのない確かな希望が必要です。その希望が、主イエスキリストという形でわたしたちにはもう与えられているのです。この朽ちることのない希望に生きる者としての歩みを、この礼拝の場からまた新たに歩み始めていこうではありませんか。
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