2020年8月16日礼拝説教「平和をもたらす神の言葉」

 

聖書箇所:ヨナ書3章1~10節

平和をもたらす神の言葉

 

 毎年この時期に、平和を覚える主日として旧約聖書の預言書の御言葉に聞いています。預言書のなかでもヨナ書は、ヨナの物語が大半を占めている点に特徴があります。ヨナ書の冒頭で、預言者ヨナが神からニネベに行くよう命じられます。しかし彼はそれを拒否し、ニネベとは反対方向のタルシシュへと船出します。神は嵐を起こされまして、ヨナが船から放り出されることになります。神はヨナのために大きな魚を用意され、ヨナを飲み込ませました。ヨナは三日三晩そこで過ごし、ついに命が助けられました。こうしてヨナはようやくニネベに行くことにします。そして、3章へと続いていきます。

 まず押さえておきたいのは、ヨナがニネベに行くことを拒否した理由です。ニネベは、ヨナの祖国を滅ぼした国の主要都市でありました。自分たちの親しい人たちを殺した憎き町なのです。ニネベが滅ぼされてこそ、自分たちに平和が訪れる。それがニネベに対するヨナの思いでありました。だからヨナは、ニネベに行くことを拒否したのです。このヨナの立場に置かれたならば、わたしたちも同じ思いを抱くでしょう。しかし神の御心は違っていました。そのような憎き町へと、主なる神はヨナを遣わされたのです。

 ニネベの町についたヨナは「四十日すれば、ニネベの町は滅びる」と叫びます。これが、ヨナ書において唯一、神の言葉が預言者をとおして人々に語られた言葉です。恐るべき裁きの言葉が、ニネベに対して語られました。ヨナは、できればこの言葉どおりにニネベが滅ぼされてほしいと願いながら、叫んでいたことでしょう。しかしこの大変短い神の裁きの言葉が、驚くべきことにニネベの町全体を悔い改めに導きました。ヨナは三日の道のりの一日分しか歩いていません。ニネベの町には、ヨナの言葉を直接聞いていない人も多かったでありましょう。しかし人々は神を信じ、断食を呼びかけました。このことが王に伝えられますと、王は徹底的に悔い改めます。それだけでなく、町全体、家畜にいたるまで、ひたすらに神に祈願し、悪の道を離れ、その手から不法を捨てることを命じたのです。それまでこの町は自らの繁栄を求め、人々の平和を壊し続けてきました。そこから、ニネベは離れたのです。この様子を神はご覧になられました。そして、自らが宣告した災いをニネベに下すのを思い直されました。ここに、ヨナをとおして厳しい裁きの言葉を語られた神の御心があるのです。

 神は、悪に対して厳格な態度で臨まれます。それ故に、神に逆らう行いに対する厳しい裁きの言葉が聖書には記されています。しかし一方で神は、神の逆らった人々がそのまま滅んでいくことを望まれてはないのです。神の裁きの言葉は、人々が神のもとへと立ち帰り、神とともに平和の道を歩み始めることを、願って語られているのです。それに対して、神の言葉を語っていたヨナ心は違っていました。神の言葉どおりに、こんな町は滅んでほしい。そう思いながら神の言葉を語っていたのです。神の言葉を語らせた神と、神の言葉を語ったヨナの思いは正反対です。神は御心を行われますから、悔い改めたニネベの町をご覧になり、災いをくだされるのを思い直されました。こうして本来であれば滅ぶべき大きな町と、滅ぶべき多くの人々が救われました。神の言葉によって、ニネベに平和が訪れたのです。にもかかわらず、4章の最初を見ますとヨナは、このことが大いに不満で怒っていました。平和をもたらす神の言葉を語ったヨナ自身が、平和とは程遠い状況だったのです。新約聖書でいうならば、弟の帰りを喜べなかった放蕩息子の兄と同じです(ルカ15章)。

 

 神は、ヨナだけでなく、わたしたちを含む神の民にも、神の御心から遠く離れた人々に神の言葉を語ることを求めておられます。それは語られた相手にとって好ましい言葉ではありません。このままの歩みを続けたら滅びるという、神の裁きの言葉です。もし政治が、あるいは世の多くの人々が、神の御心から離れて平和を壊す方向へと向かっているならば、わたしたちは神の裁きの言葉を叫ばなければなりません。ただ、そのときには語るわたしたち自身のあり方が問われるでしょう。神の裁きの言葉は、決して滅びを目的とする言葉ではなく、平和をもたらす言葉だからです。この神の言葉を語るわたしたちも、神から離れている人々が神へと立ち帰って平和が与えられることを求める者でありたいのです。神は、誰よりも人々が立ち帰ることをお望みになっておられます。ニネベですら神は、それをお望みになったのです。そして神がニネベを、驚くべき立ち帰りへとお導きになったのです。そのときに、神の裁きの言葉を語るわたしたちは、それを喜ぶことができるでしょうか。本来であればわたしたちは、自分の平和をかき乱すような相手の滅びを望む者です。それは、人として当然の感情かもしれません。そのような感情があったとしても神の民でなくなることはありませが、この感情に留まっていてはどうでしょう。それは平和をもたらす神の言葉を語りながら、その平和の中にはいなかったヨナと同じでしょう。しかしもし神の言葉を語る者が、神の御心を心から望むときには、神の言葉を語る者自身にも神の平和が与えられるのです。一テモテ2:4には「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」とあります。わたしの親しい人だけでなく、わたしの平和をかき乱す人々をも救われて、真理である主イエスキリストを知るようになることを神は望んでおられます。この神の望みを、わたし自身の望みとして生きてまいりたいのです。そして神の望みが実現したならば、それを心から喜ぶものでありたいのです。そのときに神の平和は、わたしたちのものとなるのです。平和をもたらす神の言葉を人々に語るわたしたち自身がまず、神の平和に留まる者でありたいのです。