2020年8月9日礼拝説教「主のまっすぐな道」

 

聖書箇所:使徒言行録13章4~12節

主のまっすぐな道

 

 宣教旅行へと召されたバルナバとサウロが、今日の箇所からいよいよこの旅へと出発しました。セレウキアから船出し、キプロス島の東部サラミスに着きました。そこから島全体をめぐり、西部のパフォスに至るのが今日の道筋です。彼らは助手としてヨハネを連れていました。この宣教旅行には必要な助けのために旅に同行する人がおり、このような人々のサポートがあって成り立っていたことが伺えます。決してバルナバとサウロの孤独な旅ではなかったのです。

 さて、このように宣教旅行を始めたバルナバとサウロは、サラミスにつくと早速ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせました。キプロス島はバルナバの故郷でもあります。このときすでにユダヤ人が相当数住んでいたと考えられています。彼らはすでに旧約聖書を受け入れています。そんな彼らに宣教するために会堂をめぐりまして、旧約聖書に預言された主イエスの福音を神の言葉として述べ伝えたのです。こうしてパフォスまで来ますと、バルナバとサウロはバルイエス(イエスの子という意味)という人に出会いました。彼には様々な肩書がついており、そこからこの人のことをある程度知ることができます。まずバルイエスという名前。彼はユダヤ人であり偽預言者でした。ですから、聖書を信じていない異教徒ではありません。偽ではありますが、預言者として聖書の言葉に基づいて神の言葉を語っていたようです。しかしそれは正しい教えではありませんでした。彼は魔術師とも言われています。聖書を受け入れながらも、魔術で人を驚かすようなことを重視するかなり怪しい異端的な教えだったようです。このバルイエスは、地方総督セルギウス・パウルスと交際がありました。地方総督は賢明な人であり、バルナバとサウロを招いて神の言葉を聞こうとしました。彼は意思をもって、バルナバとサウロの語る神の言葉を聞くことを求めたのです。バルイエスによる怪しい教えではなく、バルナバとサウロが語る正しい神の言葉を求めるところに、この人の賢明さが現れています。

 これに反抗したのが、8節で魔術師エリマと呼ばれているバルイエスです。彼はバルナバとサウロに対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとしました。このままでは、自らの立場が危ういからです。「遠ざける」という言葉は意訳です。直訳すると、「総督がこの信仰から曲がることを求めた」となります。地方総督はまっすぐに神の言葉を求めたのに対し、バルイエスは総督の信仰が曲がることを求めたのです。主のまっすぐな道をうけとるか、それを曲げるかのせめぎ合いが、ここで起こっているのです。するとサウロが聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて言いました。まず10節では、バルイエス自身や、彼の行動について明らかにされています。彼はあらゆる偽りと欺きに満ちた者と言われます。彼も聖書を受け入れてはいましたが、その教えは偽りと欺きに満ちていたのです。さらに悪魔の子だと呼ばれます。お前はイエスの子ではなく悪魔の子だ、という意味合いで語られているでしょう。また彼はすべての正義の敵であり、主のまっすぐな道をゆがめようとするのです。正義、主のまっすぐな道とは、バルナバとサウロが伝えていた神の言葉であり、12節で述べられている主の教えです。バルナバとサウロが聖書の正しいを教えを伝え、総督もそれを聞こうとしているのに、バルイエスはそれを曲げる方向へと総督を導こうとしている。それがここで示されたバルイエスの姿です。続く11節には、彼に下される裁きが語られます。この言葉どおり、たちまち彼の目はかすみ、すっかり見えなくなりました。歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探さなくてはならなくなりました。これは彼の身に起こったことであるとともに、聖書の正しい教えを曲げた彼の教えの行き着く先をよく表しているように思うのです。総督はこの出来語を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入りました。彼はバルイエスの身に起こった奇跡的な出来事に驚いたのではありません。バルナバとサウロが正しく伝えていた主の教えが確かであり、バルイエスの伝える偽りの教えが退けられていく様子を総督は見たのです。こうして総督は、主イエスを信じて洗礼を受け、信仰に入ったのでした。

 人の歩みは、聖書に示された主のまっすぐた道によって確かなものとされます。これはただ聖書を信じていれば、無条件で大丈夫ということではありません。バルイエスもユダヤ人として聖書を受け入れていたのです。しかし彼の歩みは確かにされず、盲目となってしまいました。それに対して賢明な人物であった地方総督は、まっすぐに神の言葉を聞くことを求めました。その結果、信仰を持つにいたり、主のまっすぐな道へと導かれたのです。こうして彼の歩みが、確かなものとされたのです。バルナバとサウロの伝えていた主の教えと、バルイエスが教えていた曲がった教え。この二つの根本的な違いは、主イエスの十字架の有無です。聖書を主イエスの十字架の愛をとおして受け取るときにわたしたちの歩みは確かにされ、そうでなければいくら聖書を受け入れていてもバルイエスのように行き先が見えず手を引いてくれる人を探し回ることになるのです。

 

 わたしたちの中にも、聖書にある主イエスの十字架に示された主のまっすぐな道を、自分の都合よく曲げたいという思いがあるのです。しかしそのような自己都合の曲がった教えによっては、わたしたちの歩みは確かにされません。それが今日のバルイエスに示された姿です。それに対して今日の総督のように主の教えをまっすぐに求め、主イエスの十字架の愛に固く立って聖書の教えに聞くときにこそ、わたしたちの歩みは神の御前に揺るぎなく確かなものとされていくのです。