2020年7月26日礼拝説教「神の祭司の祝福」

 

聖書箇所:創世記14章17~24節

神の祭司の祝福

 

 前回の箇所においてアブラムは、ソドムとゴモラを略奪して甥のロトを財産もろとも連れ去ったケドルラオメル王と仲間たちに向けて出陣し、奪われていたすべての物を取り返しました。この戦いから帰ってきたときの場面が、今日のお話です。

アブラムが戦いから帰ったとき、シャベの谷すなわち王の谷でソドムの王が出迎えました。サレムの王メルキゼデクもまた、パンとぶどう酒をもってやってきました。サレムはエルサレムのことを指すと考えられています。このメルキゼデク王は、新約聖書にも言及される重要な人物です(ヘブライ5~7章)。ただし彼はこのとき、主なる神を知り、自覚的にこの神に仕えていたわけではありませんでした。「いと高き神」という呼び方は、当時の一般的な神の呼び方でありました。日本語で単に「神」と言うようなものです。わたしたちにとっては、神と言われればそれは聖書が示す唯一の主なる神を指します。けれども神という言葉から別の存在を思い浮かべる方も多いでしょうし、特定の存在と結びつくことなく漠然と超越的な存在を思い浮かべる方もいらっしゃいます。「いと高き神」という言葉は、そのような広い意味合いの言葉なのです。このことを踏まえて、メルキゼデクがアブラムを祝福した言葉を見ましょう(19,20節)。メルキゼデクは、自らの理解として「いと高き神」が世界を支配していることを知っていました。その彼が、驚くべきアブラムの勝利を知りました。ここから、自分が仕えている「いと高き神」がアブラムに勝利を与えたのだと悟ったのです。こうしてメルキゼデクはアブラムを祝福し、アブラムに勝利を与えられたいと高き神をたたえました。アブラムは、メルキゼデク王に対してすべてのものから十分の一を贈りました。これは自発的な贈り物ではなく、両者の関係を明らかにするための贈り物であったと言われています。王であるメルキゼデクと寄留者であるアブラムの間には、社会的な地位において上下関係があります。ですからアブラムは、自らを祝福してくれた王であるメルキゼデクに贈り物を送ることで、果たすべき社会的な責任を果たしたのです。

 一方で、ソドムの王は21節でアブラムと取引をはじめました。ソドムの王にとっては、人も財産も自らの所有物であり取引の対象のようです。この取引を、アブラムは基本的には拒否します。23節のアブラムの言葉から、ソドムの王はこの取引においてなお自らを誇ろうとしていたことが分かります。いくら自らに利益があろうとも、神の御業を脇において人の栄誉のためになされる取引には、神の民として応じるべきではないのです。アブラム自身は、ソドムの王から一切何も受け取らないことを強調しています。ただアブラムは、共に戦った人々のためのものについては要求します(24節)。若者たちがすでに食べたものとともに、自らと共に戦った人々への報酬を、アブラムは要求しました。共に戦った人々とは、アネルとエシュコルとマムレです。彼らはアブラムと同盟を組んでいた人々で(13節)、神の民ではありません。しかし、アブラムに協力して共に戦った人々です。彼らがアブラムの要求によって正当な分け前を受け取ることによって、神の民のために戦ったことによる神の祝福を彼らは受け取ったのです。

 今日の箇所において、アブアラム以外の人々は皆、神の民ではありません。そして彼らは皆、それぞれにある程度の地位や能力や財産を持っていました。こういった力ある未信者の人々と、神の民であるわたしたちがどう接するべきかを、今日の箇所から学ぶことができるでしょう。教会活動はこのような力ある未信者の方々の協力なくしては成り立ちません。教会は地上に建てられていますから、社会的な仕組みに守られています。会堂を建てるにしても、そこで働いてくださる大工さんの大半は未信者でしょう。こういった、地上において教会の上に立つ人々や、教会のために共に労苦してくださる方々に対して、教会としても一信仰者としても喜んで義務や責任を果たし、正当な分け前を取らせるものでありたいのです。これは単に義務を果たすことではありません。こうすることによって、教会のために働いてくださった未信者の方々にも、神の祝福が注がれていくのです。

 

 今日の箇所におけるアブラムは、大変気前のよい人として描かれています。それは単にアブラムが親切な人だったということではありません。神の民の代表者であるアブラムが、神の祝福の源であったということです。12章のはじめにおいて、神はアブラムを地上の氏族すべての祝福の源とすると約束してくださいました。アブラムが今日の箇所で自らの身を切ってでも神の民ではない人々に対して義務や責任を果たし、気前よく振る舞うことによって、彼らにも神の祝福が注がれました。こうしてアブラムは、神の祝福の源となったのです。これが神の民の姿なのです。主イエスの十字架がその最たる例です。主イエスが十字架上で身を切って血を流され、その功績を救われるはずもないわたしたちに気前よくお与えくださいました。すべての人は、主イエスをとおして神の祝福に与ります。そして主イエスから祝福を受けて神の民とされたわたしたち自身もまた、アブラムと同じように神の祝福の源とされています。しかも神を信じる人々に対してだけではありません。すべての人々の祝福の源です。だからこそすべての人々の祝福の源とされたわたしたちは、同じ信仰を持つ方々とそうでない方々との間に安易に線を引くべきではないでしょう。まだ神を信じていない人々に対しても、喜んで義務を果たしていくこと。また、教会と共に歩んでくださる方々に対しては、身を切ってまで分け前を取らせるほどの良き友であること。このことをとおして、神の祝福はすべての人々に豊かに注がれていくのです。