2020年7月19日礼拝説教「世の王は倒れ、神の言葉は栄える」

 

聖書箇所:使徒言行録12章18~25節

世の王は倒れ、神の言葉は栄える

 

 今日の箇所は、ヘロデ王のことが中心に書かれています。ただ12章全体の流れから見ると、ヘロデ王だけでなくエルサレム教会のことが並行して記されています。エルサレム教会と、ヘロデ王。この2つの出来事をとおして、神の言葉はますます栄え、広がっていったのです。ですから、エルサレム教会とヘロデ王のそれぞれで、このとき起こっていたことを順に取り上げてまいります。

 まずエルサレム教会です。12:1~17で、使徒ペトロがヘロデ王に捕らえられたあと、天使によって助けられました。牢から出たペトロは、人々に指示を与えたあと、最終的には他の所へ行きました(17節)。今日の箇所では、兵士たちやヘロデ王がペトロを探しています。ですから、ペトロは身を隠すために他の所へ行ったことがわかります。この行動は、使徒言行録の流れにおいても意味があります。この後ペトロは、エルサレム教会において中心的な役割を担うことはなくなります。それはペトロだけではありません。12章の初めで、すでにヨハネの兄弟ヤコブが殺されました。彼も、それまでエルサレム教会を中心的に指導してきた一人です。さらに12:25で、マルコと呼ばれるヨハネもバルナバとサウロに連れられて行ってしまいます。彼もまた、エルサレム教会のなかで大切な役割を担っていたと考えられています。それまでエルサレム教会を指導していたこの三人が、たて続けに教会からいなくなってしまいました。エルサレム教会は、もうそれまでと同じ働きをすることは難しくなりました。これまで教会としてなしてきた功績ややり方に頼ることができない中で、新たな一歩を踏み出さなければならないのです。これが、今日の箇所におけるエルサレム教会の状況です。

 対して自らの立場に自信を持ち、自らの思うままに振る舞ったのがヘロデ王でした。ヘロデ王は少なくともエルサレムにいるときは、熱心に旧約聖書にある律法を守っていました。このことについてはユダヤ人たちからも一定の評価を得ていました。その意味で、このヘロデ王は聖書を無視して好き勝手に生きる支配者ではありませんでした。聖書の御言葉を生活に取り入れていた人なのです。このような人が教会にいたら、信仰深い人だと思うのではないでしょうか。このような信仰深く見えるヘロデ王が、今日の箇所で天使に打たれ、悲惨な死を遂げたのです。この点をよく理解していただきたいのです。信仰的に行動していたように見えた人が、今日の箇所で神に打たれたのです。聖書はその理由をはっきりと記しています。「神に栄光を帰さなかったから」です。

 ヘロデ王が聖書に従って行動していたのは、自分が周りの人々に評価されるためでした。自分の信仰深さが周りの人々に認められて、それによって周りの人々が自分の望みを聞いてくれるようになるために、ヘロデ王は聖書に従っていたのです。ユダヤ人から評価されるために、彼がペトロを捕らえて殺そうとしたことからも、それは明らかです。カイサリアに下ったあとの彼の行動はさらに顕著です。20節からは、ヘロデ王と和解しようとするティルスとシドンの住民が出てきます。彼らはブラストの助けを借りながら、ヘロデ王の思いを汲み取って行動しました。そこで出たのが「神の声だ。人間の声ではない」という言葉でした。この言葉に対するヘロデ王の反応は書かれていませんが、おそらくそれを気持ちよく聞いていたでありましょう。するとヘロデ王は、たちまち天使に打たれます。蛆に食い荒らされて息絶えました。蛆というのは、神に逆らう者への裁きに用いられる生き物です(イザヤ14:11等)。ヘロデ王は神に裁かれて死んだのです。聖書の言葉を生活に取り入れて生きていたにも関わらず、です。彼が聖書に従ったのは、自分の功績を積み上げて、それによって自分の願いどおりに周りの人々が動いてくれるようになるためでした。そのような思いが神によって打ち砕かれたのです。こうして、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」という24節が実現したのです。神の言葉が栄えて広がっていくために、ヘロデ王のような自分のために御言葉に従う生き方は倒されなければならないのです。

 今日の説教題で挙げている「世の王」とは、この世の権力者のことではありません。ヘロデ王のように、自分が世の王になろうとする思いのことです。自分が一生懸命聖書に従い、自分が周りの人々に認められることによって、自分の思い通りに生きようとする。それが世の王の生き方です。いくら信仰的で立派に見えても、それは神に栄光を帰す生き方ではありません。しかし誰もが、世の王になろうとする思いを持っているのです。このような思いが、今日の箇所において倒されたのです。これに対して、このときのエルサレム教会はどうだったでしょうか。指導者が次々と去っていく状況でした。それまで積み上げてきた功績を頼って歩んでいくことは、もはやできません。ただ神を頼りにして、それまでとは違う不安で危険な新たな一歩を踏み出さなければならない状況に置かれていました。ヘロデ王が倒れた一方、このような神に頼らざるをえない状況に置かれた教会が、神の言葉が栄え広まるために用いられたのです。

 

 主イエスに救われたわたしたちは、御言葉に従って生きています。それが自らの功績を積み、周りの人々に認められるために行われているとしたら、そこから神の言葉が栄え広がっていくことはありません。しかし誰もが、一生懸命教会に仕えているからには、教会が自分の思い通りに動いてほしいという思いを持っているのです。誰もが持っている、世の王として生きようとする思いが倒されたその先に、神の言葉が栄えて広がっていくという素晴らしい救いのできごとが実現していくのです。