2020年7月5日礼拝説教「熱心に祈る教会」

 

聖書箇所:使徒言行録12章1~5節

熱心に祈る教会

 

 今日の箇所では、ヘロデ王が教会を迫害するお話です。ヘロデ王というのは、歴史上の人物でいうならばヘロデ・アグリッパ一世という人物です。この人は、12章の終わりで急死します。それが西暦44年のことでした。ところで11章の終わりに記されている飢饉が起こったのは、西暦47年頃でした。ですから12章の記事は、時代が数年時をさかのぼることになります。ここから、今日の箇所でヘロデ王に迫害されている教会が、アンティオキア教会ではなくてエルサレム教会であることがわかります。この迫害は、政治的な権力者によって起こった初めての迫害でした。これ以前の教会への迫害の記事は、ユダヤ教からのものでした。いわば旧約聖書の理解の違いからくる宗教内対立による迫害だったのです。ここにヘロデ王が介入することによって、支配者による教会の迫害が始まったわけです。

 ヘロデ王はまずヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。主の弟子のひとりであった、ゼベダイの子ヤコブです。12弟子のなかでも、特に主イエスのお近くで仕えた中心的な弟子のひとりでした。当時の教会においても中心的な役割を担った人でだったでありましょう。そのヤコブを、ヘロデ王は殺しました。それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえたのでした。ヘロデ王は、エルサレムにいるときには熱心に律法を守る人であったようです。ただ、エルサレムから離れているときには、その土地の文化に従って偶像を近くに置いたりもしたようです。「郷に入っては郷に従え」タイプの他者の目を気にする人であったようです。ですからヘロデ王は、ユダヤ人から支持を得るという目的のために適した、キリスト教会の中心人物だけを迫害したのです。こうして捕らえたペトロを、ヘロデ王はすぐに処刑することはしませんでした。過越祭の後で、ペトロを民衆の前に引き出すつもりでした。過越祭のために各地からエルサレムに巡礼にきている熱心なユダヤ人たちに、自らの功績を宣伝するためです。そのために、ペトロは一旦牢に入れられることになりました。ヘロデ王は、四人一組の兵士四組に引きわたして監視させました。大変厳重な監視体制です。なぜならペトロは、ヘロデ王がユダヤ人たちから支持を受けるために必要な囚人だからです。

 このようにして捕らえられたペトロは、結果的に十字架の主イエスの御跡を辿ることとなりました。主イエスが十字架に架けられましたのも過越祭のときでした。一方教会では、ペトロのために熱心な祈りがなされました。この熱心な祈りは、十字架直前に主イエスが祈られたゲッセマネの祈りにつながります。ルカ22:44で主イエスが「いよいよ切に祈られた」と記されています。この「いよいよ切に」が、「熱心な」と共通する言葉なのです。熱心に祈ることをとおして、教会もペトロと共に十字架の主イエスの御跡を辿ったのです。

 ところで、このとき教会は何を熱心に祈っていたのでしょうか。捕らえられたペトロの命が助かることでしょうか。話の流れのなかを見ますと、教会がペトロの救出を熱心に祈っていたとは考えにくいのです。少し先の12~15節に、その理由があります。ここには、ペトロが奇跡的にも牢から抜け出して、仲間のところに行ったときのお話が記されています。このとき、人々はペトロが戸口に立っていることを信じませんでした。ペトロの救出を熱心に祈り願ってる人々の態度としては、不自然です。

 では、教会では何を熱心に祈っていたのでしょうか。それを教えてくれるのは、ルカ22章でいよいよ切に祈られた主イエスの祈りでありましょう。ここで主イエスは、御自分の願いよりも御父の御心のままに行われることを祈られました(ルカ22:42)。ペトロのために熱心に祈っていた教会の祈りも、この祈りであったでありましょう。もちろん心情としてはペトロが助かって欲しいという思いはあったでしょう。しかしそれにも増して熱心に彼らが祈ったのは、捕らえられたペトロをとおして御心が行われることだったのです。使徒言行録の始めには、主イエスの御心として「あなたがたは、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と記されています。ですから、教会が祈っていた具体的な内容は、「捕らえられたペトロが主イエスを証しすることができるように」というものであったでしょう。これこそ、教会が熱心に祈るべきことなのです。

 もちろん、目の前の困難に対する解決を祈るべきではないということではありません。ゲッセマネの主イエスは、十字架の杯が取り除けられるようにも祈られました。しかしそれが、優先すべき第一の祈りではないのです。教会が最も熱心に祈るべき第一の祈り求めるべきとは、御心が実現することです。しかもそれが、わたし自身や兄弟姉妹をとおして実現するように、教会は祈るのです。主イエスは、このように約束してくださっています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

「これらのもの」とは、わたしたちが直接感じている不足や渇望です。神の国と神の義を求める中で、それらが満たされていくのです。神の国と神の義が実現するように。神様の御心がわたしたちをとおして実現していくように。これらの熱心な祈りの中で、あらゆる不足や渇望が満たされていく。それが今日の御言葉に記されている教会の姿なのです。

 

 わたしたちの教会も、神の御心が実現することを熱心に祈り求める教会でありましょう。そして神の御心の実現のために、それぞれが自らの賜物を活かして生きてまいりましょう。このようにして、御心の実現を求めるこの熱心な祈りを共にしてまいりましょう。