2020年6月28日礼拝説教「戦火からの救出」

 

聖書箇所:創世記14章1~16節

戦火からの救出

 

 わたしたちはアブラムの物語を学んでいます。神の民のご先祖であるこのアブラムの歩みが、救われて神の民とされた者のモデルです。アブラムの歩みとは、時に失敗しつつも、神様の約束に生かされていく生き方です。このお話が、13章まではアブラムやその周辺の人々を中心に話が進んできました。14章では、より広い視野で物語が記されます。アブラムの周囲にいた王たちの争いの物語です。こういった争いごとにはできれば関わりたくないものです。しかし甥のロトが、この戦いに巻き込まれます。その救出のために、アブラムもこの戦いに関わることになります。神に救われた者の歩みは、神との愛の関係だけでは済まされません。周囲には争いの絶えない世界があります。それに関わって生きていかなくてはなりません。聖書は、わたしたちが教会に閉じこもってセクトとして生きることを勧めていません。理想で済まされない、世の戦いと関わるように促すのです。

 14章は始めに、戦いに参加した王たちの名前が挙げられています。大きく見ますと1節に挙げられている4人の王たちと、2節に挙げられている5人の王たちの戦いです。前者の4人の王たちは、アブラムがいるカナンから見ると北や西のバビロン辺りの地域を支配していた人々でありました。一方2節に挙げられている後者の5人の王たちの支配地域は、おそらく死海の南東の地域だったであろうと考えられています。それで、前者の4人の王たちが、後者の5人の王たちの支配する地域に攻めてくるというのが、今日の箇所で記されている戦いです。ですから、北から南に向けて4人の王たちが攻めてきたわけです。この4人の王たちが各地で人々を打ちまして、6節でエル・パランという紅海に接する地にいたります。そこから転進して北に向かいました。おそらくここから、帰途についたのでありましょう。4人の王たちが北に向かう途中、死海にあるシディムの谷で5人の王たちとの戦闘が起こりました。その結果、4人の王たちが勝利をおさめます。ソドムとゴモラは略奪にあいまして、食料や財産はすべて奪い去られました。そこに住んでいたロトも、財産もろとも連れ去られていったのです。

 ここで一人の男が逃げのびて、アブラムにそのことを知らせました。それを聞いたアブラムは、彼の家で生まれた奴隷で訓練された者318人を招集し、ダンまで追跡しました。ダンは、カナンの地のなかでも北の方に位置する場所です。4人の王たちは自分たちの国に帰る途中でした。その王たちを、アブラムは北に向かって追跡したわけです。そして夜襲をかけて4人の王たちを襲い、勝利をおさめました。4人の王たちは強かったのですが、その王たちにアブラムは勝利したのです。ただこのお話は、アブラムの強さを示すためのお話ではありません。まして、アブラムをモデルとしている神の民の強さを示す物語ではないのです。大切なのはその後です。アブラムはすべての財産を取り返しました。そしてロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻したのです。ロトだけではありません。アブラムは、この戦いによって奪われたすべての物を取り戻したのです。

 今日のお話では王たちの間で戦いが起こり、そしてアブラムもそこに加わって戦っています。しかし戦いに加わる目的の面で、王たちとアブラムは、全く異なります。4人の王たちが戦ったのは、奪い去るためです。彼らに対抗した5人の王たちも、この面ではそれほど大差ないでしょう。アブラムは逆です。取り返し、取り戻すために彼は戦いました。16節にある「取り返す」「取り戻す」という言葉は、いずれも直訳すると「帰らせる」という言葉です。アブラムの戦いは、今あるものを奪い去るための戦いではなく、失われたものを帰らせるための戦いなのです。それが今日アブラムがした戦いであり、アブラムをモデルとする神の民がなすべき戦いなのです。

 教会においては、平和ですとか赦しが強調されます。喧嘩をせず、角を立たせず、お互い仲良くやりましょう、と。確かにそれも大切な一面です。しかし、奪い去られている現実に対しては戦わなければなりません。今日の王たちの戦いは、神様の約束の地、カナンやその周辺で起こっています。わたしたちにとっての約束の地とは、神の国であるこの教会とも言えます。教会のなかでさえ、弱い立場の人々が虐げられ、奪われていることは起こり得るのです。そのような事実あるにも関わらず、そこから目を背けて、赦しましょう仲よくしましょう、ではいけないのです。この面で、教会は決して仲良しこよしの場ではありません。教会は、奪い取るという人の罪の現実に対して断固として戦っていく、戦いの場でもあるのです。

 

 また教会から一歩外に出てわたしたちの周りを見渡せば、多くのものが奪い去られ、本来あるべき場所から失われている現実があります。決して愛や救いといった理想だけでは片づけられない現実の世界があるのです。そしてわたしたちは、特に平日において、この現実の世界のなかで必死に戦っています。もちろん戦っているのは、クリスチャンだけではありません。信仰者であるなしに関わらず、誰もが理想的ではないこの現実のなかで戦っています。大切なことは、目的です。わたしたちは奪い取って自らが栄えるためではなく、奪われているものを帰すために戦うのです。そしてわたしたちのこの戦いをとおして、神の御前に失われていた人々が神の御許へと帰されていくのです。アブラムの戦いによって失われたロトが帰されました。わたしたちも同じ戦いをするのです。主イエスも地上のご生涯において、同じ戦いをなされました(ルカ10:19)。わたしたちも同じ戦いへと召されています。神の御前に失われたものを取り戻すための戦場へと、この礼拝の場からそれぞれ遣わされていこうではありませんか。